2006N115句(前日までの二句を含む)

November 05112006

 たはしにて夜学教師の指洗ふ

                           沢木欣一

う40年も前になります。私の通っていた都立高校は、夜間もやっていました。同じ教室で、昼間とは違った生徒が同じ机を使用して授業を受けていました。朝、学校へ行って椅子に坐ると、机の上に自分のものとは違う消しゴムのかすが残っていました。数時間前にここにいた少年の存在を、じかに感じたものです。当時は意味も考えずに「定時制」という言葉を使っていました。昼間の学校も定時といえば定時なのに、何故かこちらのほうは「全日制」と言います。「定時」という言葉には、限られた時間の中に生を込めようとするものの、必死の思いを感じることができます。掲句、たわしで洗わねばならないほどのものとは何なのか、というのが真っ先に思ったことでした。指をたわしで洗うという行為は、自分にひどくこびりついたものを懸命に落している姿を想像させます。わざわざ「夜学」といっているところを見ますと、昼は別の生活を持ち、夜に教鞭をとっている人の、日々の困難さを暗示しているようです。夜に学ぶ生徒たちに会う前に、血がにじんでも落しておきたいものが、この教師にはあったのです。季語は「夜学」。勉強に適した季節という意味で、秋に置かれています。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 04112006

 十三夜に育つ月よと話しつつ

                           酒井郁子

三夜、後の月。今年は十一月三日、昨晩だった。後の月を愛でるに至った経緯は諸説あるが、日本だけの風習というのは一致するところのようである。初めて、十三夜、という言葉を認識したのは、中学の国語の時間、文学史の中の樋口一葉の小説の題名としての「十三夜」。主人公のお関は、当時で言えば玉の輿に乗るが、子をなしてから冷たくなった夫との生活に悩み、十三夜の晩に、そっと実家を訪ね、父母に離婚もいとわない思いをうちあける。しかし結局父親に諭され、自らの境遇を運命として受け入れ婚家に戻ってゆくのである。十三夜、の象徴するものは何なのだろう。15−2=13と見るならば、欠けていることになるその部分、お関の満たされない心、当時の社会への不満とも感じられる。しかし、13+2=15と見れば、もしかしたらこの先、もっと自由に満ちた時代が来るかもしれない、という、実生活でも苦しみの多かった一葉の希望が託されているようにも思えてくる。晩秋のひんやりと澄んだ空にうかぶ後の月。この句は、この月は育つ月、これから満ちていく月だ、と語っている。上六になっても、十三夜に、としたことで、月を見上げつつ二言三言、また見上げている様子が具体的に見える。小説「十三夜」が世に出て百年余、確かにある意味自由な時代にはなった。『笹目行』(1989)所収。(今井肖子)


November 03112006

 木の実独楽ひとつおろかに背が高き

                           橋本多佳子

本多佳子は女性にしては長身だったらしい。たくさんの木の実独楽の中で、ひとつだけ細長い奴がいて、回すと重心も定まらずすぐ止まってしまう。うまく回らない木の実独楽がすなわち自分だと多佳子は言っている。「愚かな自分」に向ける目は自己戯画化。大正期以来、虚子のもとで花開いた女流俳人の特徴は、良妻賢母自己肯定型か、育ちの良さ強調のあっけらかん写生派か、男が可愛いと思う程度のお転婆派に分類できる。それは男社会から見た理想的女性像の投影そのものであった。そして官僚や軍人高官、資産家の妻や娘が女流の中心にいた。もっとも詩歌に「興ずる」のは、そういう階層の人たちという社会通念もあった。多佳子も例に洩れず九州小倉の資産家の妻。大正時代に虚子を知り「ホトトギス」に投句。杉田久女に手ほどきを受け、後に山口誓子に師事する。久女の「自分」に執着する態度と誓子のロマンが、それまでの女流にないこの句のような「自己認識」を作り出したように思う。この句と同様背が高いことについての屈折した感情を詠った句に、飯島晴子の「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」ある。背の高い哀しみはあるにせよ、舞妓である分だけ晴子の「あはれ」は美的情緒があり華麗。多佳子の「おろか」はナマの自分の肉体に向けられていて赤裸々である。『紅絲』(1951)所収。(今井 聖)




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