2006N11句

November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)


November 02112006

 秋の暮通天閣に跨がれて

                           内田美紗

天閣は大阪新世界にそびえる高さ100メートルのタワー。東京タワーと同じ設計者で、作られた時期も同じ頃なのに、まったく違う外観を呈している。両方ともその都市のシンボルであるが、東京タワーは赤いドレスを着て澄まして立っていて少し近寄りがたいが、通天閣は派手な広告をお腹につけて色の変わる帽子をかぶり、庶民的で気さくな雰囲気がある。足元には将棋場、歌謡劇場もある。展望台でビリケンのとがった頭をなでてジャンジャン横丁の串カツを食べて帰る。何でもありの天王寺界隈の賑わいにどこかもの寂しい秋の夕暮れがせまってくる。古来「秋の暮」は秋の夕暮れの意と、秋の季節の終わり(暮の秋)の両義を含みながら曖昧に用いられてきたらしい。「今では秋の日暮れどきだけに使う」(『新歳時記』河出文庫)となっているが、どうだろう。掲句のように大きな景には夕暮れの景色とともに一つの季節が終りつつある気分をも重ね合わせてみたい。通天閣が跨(また)ぐと擬人化した表現に大阪の街並みを見下ろしている通天閣の大きさと頼もしさが的確に表現されている。さらに「て」の止めに、暮れはやき今、ここで通天閣に跨がれている作者の安心が感じられるように思う。『魚眼石』(2005)所収。(三宅やよい)


November 03112006

 木の実独楽ひとつおろかに背が高き

                           橋本多佳子

本多佳子は女性にしては長身だったらしい。たくさんの木の実独楽の中で、ひとつだけ細長い奴がいて、回すと重心も定まらずすぐ止まってしまう。うまく回らない木の実独楽がすなわち自分だと多佳子は言っている。「愚かな自分」に向ける目は自己戯画化。大正期以来、虚子のもとで花開いた女流俳人の特徴は、良妻賢母自己肯定型か、育ちの良さ強調のあっけらかん写生派か、男が可愛いと思う程度のお転婆派に分類できる。それは男社会から見た理想的女性像の投影そのものであった。そして官僚や軍人高官、資産家の妻や娘が女流の中心にいた。もっとも詩歌に「興ずる」のは、そういう階層の人たちという社会通念もあった。多佳子も例に洩れず九州小倉の資産家の妻。大正時代に虚子を知り「ホトトギス」に投句。杉田久女に手ほどきを受け、後に山口誓子に師事する。久女の「自分」に執着する態度と誓子のロマンが、それまでの女流にないこの句のような「自己認識」を作り出したように思う。この句と同様背が高いことについての屈折した感情を詠った句に、飯島晴子の「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」ある。背の高い哀しみはあるにせよ、舞妓である分だけ晴子の「あはれ」は美的情緒があり華麗。多佳子の「おろか」はナマの自分の肉体に向けられていて赤裸々である。『紅絲』(1951)所収。(今井 聖)


November 04112006

 十三夜に育つ月よと話しつつ

                           酒井郁子

三夜、後の月。今年は十一月三日、昨晩だった。後の月を愛でるに至った経緯は諸説あるが、日本だけの風習というのは一致するところのようである。初めて、十三夜、という言葉を認識したのは、中学の国語の時間、文学史の中の樋口一葉の小説の題名としての「十三夜」。主人公のお関は、当時で言えば玉の輿に乗るが、子をなしてから冷たくなった夫との生活に悩み、十三夜の晩に、そっと実家を訪ね、父母に離婚もいとわない思いをうちあける。しかし結局父親に諭され、自らの境遇を運命として受け入れ婚家に戻ってゆくのである。十三夜、の象徴するものは何なのだろう。15−2=13と見るならば、欠けていることになるその部分、お関の満たされない心、当時の社会への不満とも感じられる。しかし、13+2=15と見れば、もしかしたらこの先、もっと自由に満ちた時代が来るかもしれない、という、実生活でも苦しみの多かった一葉の希望が託されているようにも思えてくる。晩秋のひんやりと澄んだ空にうかぶ後の月。この句は、この月は育つ月、これから満ちていく月だ、と語っている。上六になっても、十三夜に、としたことで、月を見上げつつ二言三言、また見上げている様子が具体的に見える。小説「十三夜」が世に出て百年余、確かにある意味自由な時代にはなった。『笹目行』(1989)所収。(今井肖子)


November 05112006

 たはしにて夜学教師の指洗ふ

                           沢木欣一

う40年も前になります。私の通っていた都立高校は、夜間もやっていました。同じ教室で、昼間とは違った生徒が同じ机を使用して授業を受けていました。朝、学校へ行って椅子に坐ると、机の上に自分のものとは違う消しゴムのかすが残っていました。数時間前にここにいた少年の存在を、じかに感じたものです。当時は意味も考えずに「定時制」という言葉を使っていました。昼間の学校も定時といえば定時なのに、何故かこちらのほうは「全日制」と言います。「定時」という言葉には、限られた時間の中に生を込めようとするものの、必死の思いを感じることができます。掲句、たわしで洗わねばならないほどのものとは何なのか、というのが真っ先に思ったことでした。指をたわしで洗うという行為は、自分にひどくこびりついたものを懸命に落している姿を想像させます。わざわざ「夜学」といっているところを見ますと、昼は別の生活を持ち、夜に教鞭をとっている人の、日々の困難さを暗示しているようです。夜に学ぶ生徒たちに会う前に、血がにじんでも落しておきたいものが、この教師にはあったのです。季語は「夜学」。勉強に適した季節という意味で、秋に置かれています。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 06112006

 秋風や煙立つなる玉手箱

                           永井龍男

者は小説家、俳号は「東門居」。ついに意を決して、浦島太郎が玉手箱を開ける。なかからはパッと白い煙が立ち上り、彼は見る見るうちに白髪の老人になってしまった。おなじみのクライマックスだが、しからばこの場面の季節はいつだったろうかと、妙なことを想像したところに面白さがある。言われてみれば、なるほど、秋風の吹く浜がいちばん似合いそうだ。太郎当人にしてみれば、悲嘆限りなし。秋風が非情に感じられ、吹きつのる風の寒さが、ますます肌に刻み込まれる。しかし、このシーンを誰かが目撃していたならば、一瞬びっくりもするだろうが、相当に滑稽でもあるだろう。ひとりの若者がもうもうたる煙にむせ返ったと思うまもなく、秋の風が白煙を吹き払った後によろめいていたのは、似ても似つかぬ老人だったのだから‥‥。当今の言葉で言えば、「ウッソー」とでも叫ぶしかない。当人には深刻、他者にはびっくり、滑稽。この世には、このようなことがしばしば起きる。素人俳人ならではの、気軽にして得意満面の発想と言うべきか。こういう句が句会で披露されると、座は大いに盛り上がること必定だ。専門俳人の句もいいけれど、たまにはこうした非専門家の突飛な発想に触れてみるのも楽しい。同じ作者で、「秋是」をもう一句。「秋風や瞼二重に青蛙」。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)


November 07112006

 拭ひても残る顔あり今朝の冬

                           藤田直子

と自分がここにいる不思議を思う瞬間がある。鏡を覗き込む顔も見知らぬ者のように映り、水にくぐらせた皮膚に冬の空気が通りすぎる感触さえ、どこかよそよそしく感じる。句集は作者が配偶者に先立たれた時間のなかで作られたものであり、掲句からは愛する者を亡くしたのちも実体のある自身を持て余すようなやりきれなさが伝わってくる。しかし、残された者には望むと望まざるに関わらず、連綿と日常が控えている。今日から冬が始まることは、同時に作者の新しい日々が始まることでもある。エジプトの王ツタンカーメンの棺には、妻アンケセナーメンが摘んだ矢車草の花が添えられていたという。暗殺説もある複雑な人間関係のなかで、夫婦の愛情だけは確かに育まれていたのだ。残された若きエジプト王妃もまた、悲しみを拭うように朝を迎えていたことだろう。「秋麗の棺に凭れ眠りけり」「そぞろ寒供花ふやしてもふやしても」「がらんどうの冬畳より立ち上がる」、途方もない虚無感がごつごつと胸を乱暴に駆け抜ける。長い長い時間をかけてようやく悲しみは、かけがえのない思い出となる。『秋麗』(2006)所収。(土肥あき子)


November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


November 09112006

 生き急ぐ馬のどのゆめも馬

                           摂津幸彦

調の無季句。「馬のどのゆめも馬」と、反復のリズムが前のめりに断ち切られ「生き急ぐ」不安そのものを表している。家畜としての馬が生活の周辺から消えた今、馬と言えば走る宿命を負わされた競走馬だろう。数年前の秋の天皇賞、稀代の逃げ馬と称されたサイレンススズカははるか後方に馬群を引き離す天馬のような走りを見せたものの4コーナー手前で減速、ついには立ち止まってしまった。前脚の骨が砕けたのだ。走るために改良されたサラブレットは骨折すると生きてはいけない。予後不良と診断されたサイレンススズカは翌日命を絶たれた。彼ばかりでなくどの競走馬も常に死の影を引きずっている。厳しい戦いを勝ち抜いても、引退後生き残れる馬は一握りにすぎない。「生き急ぐ」宿命を背負わされた馬は馬群にあれば先行馬に追いすがり、トップにたてばひたすら逃げ続けるしかない。「馬」と「馬」の字面に挟まれた厩舎でのつかの間の眠り。夢に放たれてもなお馬は馬と競い合っているのかもしれない。作者は直観的に掴み出した馬のイメージを俳句に投げ入れることで、その背後にある実像まで描いてみせた。この句に漂う哀愁は馬の哀しみでもある。摂津は四十九歳で急逝。今年は没後十年にあたる。『摂津幸彦全句集』(1997)所収。(三宅やよい)


November 10112006

 冬ざれ自画像水族館の水鏡

                           鷹羽狩行

こかに映っている自分の顔を見出すことはよくある。電車やバスの窓に、川や池や沼の水面に。さらにそこに空や雲や雪や雨を重ねてドラマの一シーンを演出するのも、映像的な手法の一典型である。自画像というから、顔だけというよりもう少し広い範囲の自分の像であろう。水族館の水槽の大きなガラスに作者は自分の姿を見た。映っている自分の姿の中を縦横に泳ぐ魚たち。自分の姿に気づくのは自分を認識することの入口。作者はそこに「冬ざれ」の自分を見出しているのである。俳句に触発されて起こった二十世紀初頭のアメリカ詩の運動、イマジズムは、短い詩を多く作り、俳句の特性を取り込んで、「良い詩の三原則」というマニフェストを発表した。その中の二つが、「形容詞や副詞など修飾語を使用しないこと」「硬質なイメージをもちいること」。彼等が俳句から得た新鮮な特徴の原型がこの句にも実践されている。独自のリズムの文体の中に、かつんと響き合うように置かれた二つのイメージの衝突がある。『誕生』(1965)所収。(今井 聖)


November 11112006

 転びても花びらのごと七五三

                           今井千鶴子

歳の時私が着た七五三の着物は、母が七歳の時の着物を仕立て直したものだった。三歳違いの妹は、お姉ちゃんのお下がりはいやだ、と言い、祖母の綸子(りんず)の長襦袢を仕立て直した。妹のその着物の淡い水色と、髪をきゅっと結んで千歳飴を握りしめている顔が、遙かな記憶の彼方にくっきりとある。そして六年前、同じ水色の着物を着て、姪は七歳を祝った。着てはほどき、洗い張りしてまた仕立てる。優れた文化だとつくづく思う。この句の女の子の着物は赤だったという。二年前の十一月、作者は近所の世田谷八幡に一人散歩に。さほど大きくない神社だが、それでも土曜日とあって色とりどりの親子連れでにぎわっていた。と、目の前でひときわ目立ってかわいい赤い着物の女の子が、あっというまもなく転んでしまった。はっとしながらも、特に一句をなすこともなく数日が経つ。ある日、次の句会の兼題が「七五三」と気づき、「七五三、七五三」と考えながら歩いていたら、あの時の光景とともに「この句がはらりと天から降ってきた」ので「推敲はしていない」そうである。いわゆる「ごとく俳句」は避けましょう、が常識だが、この句は、転んで花びらに見えたのではなく、花のように愛らしい女の子は、転んでもなお花びらのようだったのである。寒冷の地では、七五三は十月に行うところも多いと聞くが、十五日をひかえた週末、あちこちの神社が賑わうことだろう。世田谷八幡に行ってみようか、句が降ってくる可能性は極めて低いけれど。『珊』(2005年冬号)所載。(今井肖子)


November 12112006

 地の温み空のぬくみの落葉かな

                           吉田鴻司

の欄を担当することになってから三ヶ月が経ちました。同じ日本語でありながら、俳句がこれほど詩とは違った姿を見せてくれるものとは、思いませんでした。言わずに我慢することの深さを、さらに覗き込んでゆこうと思います。さて、いよいよ冬の句です。掲句、目に付いたのは「ぬくみ」という語でした。「ぬくみ」ということばは、「てのひら」や「ふところ」という、人の肌を介した温かさを感じさせます。ですから、この句を読んだときにまず思ったのは、森や林の中ではなく、人がしじゅう通り過ぎる小さな公園の風景でした。マンションの脇に作られた公園の片隅、すべり台へ向かって、幼児が歩いています。幼児の足元を包む「落ち葉」のあたたかさは、もとから地上にあったものではなく、空からゆらゆらと降ってきたものだというのです。きれいな想像力です。むろん、上から落ちてくるのは、鮮やかな色に染まった一枚一枚の葉です。ただ、この句を読んでいると、葉とともに、空自体が地上へ降り立ったような印象を持ちます。透明な空が砕けて、そのまま地上へかぶさってきたようです。人々が落ち葉とともに足元に触れているのは、空の断片ででもあるかのようです。句全体に、高い縦の動きと、深い空間を感じることができます。幼児のそばにはもちろん母親がいて、動きをやさしく見守っています。この日に与えられた「ぬくみ」の意味を、じっと考えながら。俳誌「俳句」(角川書店・2006年9月号)所載。(松下育男)


November 13112006

 焚火のそばへ射つてきた鴨

                           北原白秋

の農繁期を過ぎると、どこからともなく猟銃を射つ音が聞こえはじめる。少年期を過ごした村では、犬を連れた男たちが野ウサギなどを射つために、山に入っていく姿が日常的に見られた。だから、村では猟銃の発射音が聞こえてきても、誰もほとんど気になどはとめない。音のした方角を、ちらっと一瞥するくらいだった。獲物を提げた男が山をおりてきても、同様に誰も何も言わない。やはり、一瞥をくれるのみなのであった。揚句を読んで、そんなことが思い出された。鴨猟の仔細は知らないが、情景としては早朝の大きな川のほとりで、鴨射ちに来た人たちが暖を取るために焚火を囲んでいるのだろう。その焚火の輪の外から、影のように近づいてきた男が、獲物をどさりと置いた図だ。しかし、そのおそらくは見事な獲物にも、一瞥するだけで誰が何を言うでもなく、みな寡黙に手をあぶったりしているのだ。無愛想というのではなく、それは猟仲間の一種の仁義から来ているように思える。いちはやく大物を射止めた者は喜びを殺し、それに羨望する者もおのれのはやる心を殺すのだ。そうすることで両者の矜持は平等に保たれるわけで、見方によっては鮮烈なこの情景も、仁義の支えのためにごく日常的なさりげない空間と化していく。この句の字足らずは、そのような仁義の世界をとらえるための技法だと読んだ。作者がちらりと獲物の鴨を一瞥したところで、湧いてくる情念を抑えるように目をそらした感じがよく出ている。白秋にあまり優れた句は認められないが、この句はその意味で、作者にも快心の作だったのではあるまいか。『竹林清興』(1947)所収。(清水哲男)


November 14112006

 耳の奥かさと音して冬ぬくし

                           小野淳子

やお臍など、手ずからメンテナンスする身体の部位には、長年付き合ってきた独特の親しさがある。作者もいつからか耳の奥で「かさ」と音をたてるなにかに、わずかな愛着を感じている。とはいえ、掲句が耳鼻科医の目に触れたら「すぐに来院しなさい」と囁かれるかもしれない。立ち上がるたびに覚える軽いめまいのように、身の内から発信されるシグナルに「こんなものだ」と馴れようとする気持ちが、不調を見逃す大きな過ちであることも多いと聞く。しかし「耳の奥」とは、単に医学の範疇ではなく、奥の奥、すなわち顔の把手のような一対の耳にはさまれた大いなる空間を指しているものとも取れる。このたび興をつのらせ、あらためて耳の内部を図鑑で確認してみた。外耳から内耳へと細い道は続き、なんとも不思議なものに出会う。つち骨、きぬた骨、あぶみ骨なる小さな骨が連結して、鼓膜の振動を伝えているという。まるで騎馬隊がにぎやかに小槌を打ち鳴らしながら、中枢部へと馬を走らせているようである。さらに奥には前庭、蝸牛なる名称が続き、広大で風変わりな世界に迷い込んでいる心地となる。人体に宇宙がこっそりと収まるとしたら、それは胃袋でも、心臓でもなく、きっと耳の奥に違いない。冬の日だまりでゆっくりと頭を傾け、私の宇宙を回転させる。『桃の日』(2004)所収。(土肥あき子)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


November 16112006

 一枚の落葉となりて昏睡す

                           野見山朱鳥

核療養のため、生涯の多くを病臥していた朱鳥(あすか)晩年の句。「つひに吾れも枯野のとほき樹となるか」もこの頃の作である。体力が衰え、身体がきかなくなるのに最期まで意識が冴え渡っているとは、何と残酷なことだろう。回復の希望があるならまだしも、この時期の朱鳥はもはや死を待つばかりの病状であり、自然に眠りにつくなど難しい状態だった。病が篤くなるにつれ痛みも増し、薬を服用する回数も多くなるだろう。睡眠薬やモルヒネの助けを借りて眠りにおちる「昏睡」(こんすい)は突然、奈落の底へ落とされるような暴力的眠り。目覚めたときには眠りが一瞬としか思えないぐらい深い意識の断絶があり、それは限りなく死に近い闇かもしれない。晩秋から冬にかけて散った木の葉はもう二度と生命の源である樹につながることはできない。枝からはずれたが最後、落ちた場所で朽ちてゆくしかないのだ。身動きの出来ない身体を横たえたベットで息絶えるしかないことを朱鳥は深く自覚している。落葉は見詰める対象物ではなく、今や自分自身なのだ。「一枚の落葉となりて」という措辞に希望のない眠りにつく朱鳥のおそろしいほど切実な死の実感がこめられているように思う。『野見山朱鳥句集』(1992)所収。(三宅やよい)


November 17112006

 あたたかき冬芽にふれて旅心

                           安土多架志

土多架志は三十八年しか生きられなかった。一九四六年に生まれ一九八四年に逝去。同志社の神学部に入り、牧師を目指すかたわら、キリスト者として学生運動に参加。山谷に潜入して政治活動をしたのち、香料会社に勤務、そこで組合を設立し、会社との対立は没年まで続いた。理論強化のために中央大学法学部通信教育課程に入学。「生産管理の合法性」という論題の卒論製作中に大腸癌発病。すでに末期(ステージIV)であることを自ら知る。当時、まだ癌告知は一般的ではなかった。しかも末期の状態である。医師は本人がキリスト者であることを知って告知したに違いない。それ以降、二年間、多架志は、癌と闘いながら、詩、短歌、俳句を書いた。俳句研究新人賞佳作、短歌研究新人賞佳作等、それぞれに才を発揮。「グリューネヴァルト磔刑の基督を見をり末期癌(ステージ・フォー)われも磔刑」などの短歌作品を収めた歌集『壮年』もある。安土多架志は僕より四歳上でちょうど全共闘世代の中心。権力と戦うことと、生きることが同義であると信じた生き方がそのまま経歴となっている。多架志はその生き方の酷烈さに比して優しい繊細な印象の青年であった。葬儀の日、礼拝堂に置かれた彼の棺に、山谷から駆けつけたオッチャンがいつまでも手を置いていたのが忘れられない。最晩年のこの句にも彼の優しさが見える。『未来』(1984)所収。(今井 聖)


November 18112006

 大仏の屋根を残して時雨けり

                           諸九尼

句を始めて新たに知ったことは多い。十三夜がいわゆる十五夜の二日前でなく、一月遅れの月であることなどが典型だが、さまざまな忌日、行事の他にも、囀(さえずり)と小鳥の違いなど挙げればきりがない。「時雨」もそのうちのひとつ、冷たくしとしと降る冬の雨だと漠然と思っていた。実際は、初冬にさっと降っては上がる雨のことをいい、春や晩秋の通り雨は「春時雨」「秋時雨」といって区別している。「すぐる」から「しぐれ」となったという説もあり、京都のような盆地の時雨が、いわゆる時雨らしい時雨なのだと聞く。本田あふひに〈しぐるゝや灯待たるゝ能舞臺〉という句があるが、「灯(あかり)待たるゝ」に、少し冷えながらもさほど降りこめられることはないとわかっている夕時雨の趣が感じられる。掲句の時雨はさらに明るい。東大寺の大仏殿と思われるのでやはり盆地、時雨の空を仰ぐと雲が真上だけ少し黒い雨雲、でも大仏殿の屋根はうすうすと光って、濡れているようには思えないなあ、と見るうち時雨は通り過ぎてしまう。さらりと詠まれていて、句だけ見ると、昨日の句会でまわってきた一句です、と言っても通りそうだが、作者の諸九尼(しょきゅうに)は一七一四年、福岡の庄屋の五女として生まれている。近隣に嫁ぐが、一七四三年、浮風という俳諧師を追って欠落、以来、京や難波で共に宗匠として俳諧に専念し、浮風の死後すぐ尼になったという、その時諸九、四十九歳。〈夕がほや一日の息ふつとつく〉〈一雫こぼして延びる木の芽かな〉〈けふの月目のおとろへを忘れけり〉〈鶏頭や老ても紅はうすからず〉繊細さと太さをあわせもつ句は今も腐らない。『諸九尼句集』(1786)所収。(今井肖子)


November 19112006

 永遠の待合室や冬の雨

                           高野ムツオ

を待つ「待合室」かによって、この句の解釈は大きく変わります。すぐに思い浮かぶのは駅です。しかし、「永遠」という語の持つ重い響きから考えて、これはどうも駅の待合室ではないようです。もっと命に近い場所、あるいは、命を「永遠」のほうへ置くための場所、つまり斎場のことを言っているのではないかと思われます。この句はわたしに、過去のある日を思い出させます。どのような理由によってであれ、大切な人を突然失うことの意味を、わたしたちは俄かに理解することはできません。理解する暇もなく、次から次へ手続きは進み、気がつけば「待合室」という名の部屋に入らされ、めったに会うことのない親戚の中で、飲みたくもないお茶を飲んでいるのです。ひたすらに悲しみが押し寄せてくる一方で、よそ事のような感覚も、時折入り込んできます。切羽詰った悲しみと、冷えた無感情が、ない交ぜになって揺れ動いています。扉は開き、名が呼ばれ、事が終わったことが知らされ、靴を履き、向かうべき場所へ向かう途中で、明るすぎるほどの廊下へ案内されます。高い天井の下、呆然としてガラス張りの壁の向こうを見つめていました。その日も外にはしきりに、冷たい雨が降っていたと記憶しています。『生と死の歳時記』(法研・1999)所載。(松下育男)


November 20112006

 買ひました三割引の冬帽子

                           名護靖弘

者は1936年(昭和十一年)生まれだから、だいたい私と同世代だ。いまどきの若い人なら、こういう句は作らないだろう。いや、そもそも割引で何かを買うことへの逡巡、照れや恥ずかしさの感覚は皆無のはずだから、揚句の味がわかるかどうか。私くらいの世代までは、割引品といえば粗悪品のイメージと結びついている。どこかに傷や欠陥があるか、あるいは流行遅れかなど、なべて割引品は警戒の対象であり続けてきたからだ。そんな金銭感覚の持ち主が、こともあろうに目立つ帽子を割引で買ってしまったのである。細かく調べてみても、どこといって破れやほころびもないし、時代遅れのデザインでもない。だけれども、ひっかかるのだ。こうやって被っていても、自分が気がつかないだけで、もしかすると他人の目には欠陥が丸見えになっているのかもしれない。そう思うと、不安で仕方がなくなり、誰に聞かれたわけでもないのに、どうせ「三割引」の安物ですからと言い訳をしている。言い訳しつつ、公言しつつ、居直っているところがユーモラスでもある。軽い句ではあるが、世代特有の金銭感覚がよく表現されていて、微笑しつつもちょっと身につまされる句に読めた。借金を恥辱と心得たもっと上の世代のなかには、いまだにローンになじめず、即金で物を買う人も多い。そこに詐欺師がつけこんで、バッと売りつけてパッと逃げてしまう事例には事欠かない。金の使いようも、世に連れるのである。なお、作者の名字は「みょうご」と読む。『晩節』(2006)所収。(清水哲男)


November 21112006

 霜の夜の目が濡れているぬいぐるみ

                           山田貴世

の夜とは、霜が降りる夜。気温が低くてよく晴れた風のない夜は霜が降りやすい、との解釈を読んで、ああ、霜は「降りる」ものなのだ、とあらためて感じいる。夜に発生した露が、秋では水の形態のまま明け方の露となり、冬も深まり朝方の放射冷却によって霜となるのかと理解する。しかし言葉の上では、露の「結ぶ」は地上が生み出すもの、霜の「降りる」は天上から賜るもの、という変化がある。地続きの露と比べ、「霜が降る」にはどこかファンタジーを感じる。また、霜の相に雪の結晶が見られることから「霜の花」という美しい表現もある。夜明けに清潔なガーゼを広げたように輝く一面の霜も、日が昇るにつれ、しっとりと消えてなくなってしまう。その夜明けの一瞬にだけ開く花の姿に、人形たちの夜中の舞踏会が終わる時間が重なる。アンデルセンの「すずの兵隊」やホフマンの「くるみ割り人形」に見られるように、人間が寝静まる時間におもちゃたちの遊び時間が始まり、朝日とともに動かぬ人形に戻る時間。掲句の「目が濡れている」には、黒々とした釦の目の形状を指しながら、あたかも今までまばたきをしていたかのような、ぬいぐるみの秘密の動から静の瞬間を見て取ることができる。「尼寺に静かなる修羅秋の蜘蛛」「忽と婆西日の景にまぎれこむ」などにも、季語から手渡されていく物語がある。また、本句集は新かなで通されている。作者の師である倉橋羊村氏は、まえがきで「作者が新仮名づかいを通してきたのは、同世代以降の読者を意識してのことだ」とあり、これは現代の俳句を詠む者として、常に胸にわだかまっていることだ。『湘南』(2006)所収。(土肥あき子)


November 22112006

 枯山を巻きとる祖母の糸車

                           安藤しげる

車は正確には糸繰車、糸取車などと呼ばれる。綿や繭から糸を紡ぎ出し、竹製の軽い大きな車を手で廻しながら巻きとっていく。子供の頃、うちでも祖母が背を丸めて、眠たそうな様子でよく糸繰りをしていた。左手の指先から綿を器用に細い糸状に紡ぎ出し、右手で廻す車で巻きとる。じっと見ていると、まるで手品のようで不可思議だった。今はもうどこでも用無しになってしまい、民俗資料館にでも行かなくてはお目にかかれない。わが家ではその糸を染め、手機(てばた)で織りあげて野良着や綿入れを、祖母や母が自分たちで縫いあげていた。しげる少年もおばあちゃんの糸繰り作業に目を凝らしていたことがあるのだろう。野山はもう枯れ尽きている。黙々とつづけられているおばあちゃんの作業は、寒々とした深夜までつづく――としてもいいだろうが、枯山は目の前に見えていたい。私は冬の午後日当りのいい部屋か縁側で、好天に誘われるようにのんびりあわてず、おばあちゃんがクルリクルリと車をまわしていて、近くに見えている枯山までが、一緒に巻きとられてゆくような、そんな夢幻めいた錯覚を楽しんでいたい。指先から繰り出される小さな作業だが、枯山までも巻きとるという大きさがこの句の生命である。巻きとられることで、さびしい枯山も息を吹き返してくるようにも感じられる。しげるには「高炉火(ろび)流る視野えんえんと枯芒」「螺子(ねじ)の尾根を妻子を連れて鉄工ゆく」など、職場の製鉄所を詠んだ力強い骨太の句が多い。今井聖が句集に寄せて「重い」とも「時代との格闘の痕」とも記している点が頷ける。掲句は「糸車」の軽さのなかに、重たい「枯山」を巻きとってみせた。句集『胸に東風』(2005)所収。(八木忠栄)


November 23112006

 きょうは顔も休みだ

                           岡田幸生

日は勤労感謝の日。祝日法の規定によると「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう日」らしいが、能力主義のはびこる今の世の中、毎日喜びをもって働いている人がどのくらいいるだろう。家族のため、生きるため、気にそぐわない職を続けている人も多いのではなかろうか。仕事に身をすり減らす日常を離れて本来の自分に立ち返れるのが週末の休みや今日のような祝日だろう。1962年生まれの作者は「短い言葉で世界を穿つ」魅力に惹かれ、感覚とひらめきで作る自由律俳句を始めたという。句集に収められた作品は韻律も形も様々だが、掲句の場合、きょうは/(2・1)/顔も(2・1)/休みだ(2・2)と三節に分かれ、2音と1音の反復、最後は2音の連続のリズムに落ち着く形で内容が凝縮されている。「きょうは」という限定で普段は毎日出勤して緊張を強いられた生活を送っている様子が、「顔も」という表現で心身ともにのびのび開放して休みを楽しんでいる気分が伝わってくる。休日の電車で、通勤時に見かけるサラリーマンがセーターにジーパンのラフなスタイルで家族と並んで座っているのに出くわすことがある。スーツに身を固め会社に向う緊張した面持ちとは違う和やかな表情。きっと顔も休みなのだろう。四六時中、仕事に追われている人たちにとって今日が祝福の一日でありますように。『無伴奏』(1996)所収。(三宅やよい)


November 24112006

 寒夜しまい湯に湯気と口笛“太陽がいっぱい”

                           古沢太穂

穂さんは、或る党派の党員として、その党のいうところの「民主化」運動に生涯を費やしてきた俳人である。「民主化」とは何かという論議は置いておいて、太穂さんは、その目的のために俳句表現があるという順序は、たとえ思っていたとしても表現の上には見せなかった人だ。太穂作品には政治理念よりも抒情が優先されているかに見える。この句では「太陽がいっぱい」がそれ。ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演の名作の主題歌が「しまい湯」の口笛に乗って聞こえてくる。太穂さんは2000年没。悼む会で同じ加藤楸邨門の友、金子兜太が読んだ弔辞が忘れられない。戦前、若い頃、句会の帰りに東京のはずれで、二人で飲んで電車が無くなった。兜太さんが、「宿を探そう」と言うと、太穂さんが、「俺にまかせておけ」と応えてどんどん歩いていく。どこに行くのかと思いながらついてゆくと、警察署に入った。そこには顔見知りの刑事がいて拘置所に泊めてもらったという顛末。筋金入りの闘士太穂さんらしいエピソードである。「寒雷」の句会の帰路、何度かご一緒したが、僕が、その党派の姿勢に対する疑問をぶつけて、太穂さんを憮然とさせてしまった思い出がある。自宅は横浜磯子の近く。酒豪の太穂さんを支えて腕を組んで歩き家までお送りしたこともある。酔っていても太穂さんは胸を張ってやや上の方に顎を突き出して歩いた。兜太さんと歩いた夜もそんなだったんだろうなと弔辞を聞いたあとで思った。『火雲(ひぐも)』(1982)所収。(今井 聖)


November 25112006

 大熊手使へぬ小判食へぬ鯛

                           柴原保佳

度聞いただけで覚えてしまう句というのがある。たいていリズムがよく、くっきりとしている。昨年の十一月知人が、昨日の句会で先生の特選だった句よ、と教えてくれたこの句、以来忘れられない。季題は熊手、十一月の酉の日に開かれる酉の市で売られる、開運、商売繁盛の縁起物である。今年の十一月十六日は二の酉、小春日がそのままゆるゆる暮れてしまったような宵の口に、浅草の鷲(おおとり)神社に出かけた。入り口には提灯がずらりと掲げられ、とにかく明るい。その光の中に一歩を踏み入れると、両側にぎっしりと熊手が売られている。店ごとに工夫が凝らされているが多くは、お福面を中心に、鶴亀、松竹梅、宝船、扇、注連縄、招き猫等々がこれ以上めでたくなれないとばかりに熊手の表を飾り、ひときわ輝く大判小判は、伍十両、百両とざくざくである。そして一番下に、真っ赤な鯛が向かい合ってはねている。この句の作者は、東京下町で創業百年の老舗の店主、幼い頃から熊手を見て育ったのだろう。この小判や鯛が本物だったら、それは誰もが思うはずである。しかし、いざ俳句に詠もうとすると、他の人が気づかないような発見や表現や情などを模索し、熊手の裏側をのぞいてみたりする。使へぬ小判食へぬ鯛、は、リズムがよいだけでなく、熊手に飾られた数々の福の中から、巧みに人間の欲望の象徴を抜き出してみせて小気味よい。人伝に聞いて覚えた句、出典を求めてホトトギス雑詠欄を探すと、四月号の二句欄に発見。並んで〈私も無料老人竹の春〉。「ホトトギス」(2006年4月号)所載。(今井肖子)


November 26112006

 午後といふ不思議なときの白障子

                           鷹羽狩行

語は「障子」、冬です。けだるく、幻想的な雰囲気をもった句です。障子といえば、日本の家屋にはなくてはならない建具です。格子に組んだ木の枠に白紙を張ったものを、ついたてやふすまと区別して、「明り障子」と呼ぶこともあります。きれいな言葉です。わたしはマンション暮らしが長いので、障子とは無縁の生活を送っていますが、それでも子供の頃の障子のある生活を、よく思い出します。ただ、この句のように、まぼろしの世界にあるような美しい姿とは違って、たいていは破れて、穴だらけのみすぼらしいものでした。「明り障子」という名の通りに、光はその一部を外から取り込んできます。障子とはまさに、「区切る」ことと「受け入れる」ことを同時にこなすことのできる、すぐれた境目なのだと思います。生命が活動を始める朝日の鋭い光ではなく、ここでは午後の、柔らかな光が通過してゆきます。午後のいっとき、障子を背に、心も体も休めているのでしょうか。うつらうつらする背中越しに、外気の暖かさがゆっくりと伝わってきます。日が傾いてゆくその先には、この世界とは違った「不思議な」場所への通路がうがたれているようです。「午後」という時のおだやかさは、いつまでも、まんべんなくわたしたちに降りつのっています。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 27112006

 子の背信静かに痛む柚子のとげ

                           井本農一

語は「柚子(ゆず)」で秋に分類されているが、寒くなってからの黄金色に熟した玉は美しい。「背信」とはおだやかではないけれど、親の意向を聞き入れず、子が人生の大事を自分の考えだけで決めてしまったのだろう。進学や進路についてか、あるいは結婚問題あたりだろうか。その中身は知る由もないが、これまでは何でも親に相談し、何事につけ暴走するような子ではなかっただけに、今回のはじめての「背信」には打ちひしがれる思いである。怒りというよりも、どうしたのかという心配と哀しみの感情のほうが強いのだ。たとえれば、それは不覚にも刺されてしまった柚子のとげの傷みのように、思うまいとしても、何度でも静かな痛みを伴って胸を刺してくるのであった。このときに、実際に作者の手は柚子のとげで痛んでいたのでもあろう。子の背信。一般論としては、よくあることさとわかってはいても、それが自分との関わりにおいて起きてしまうと、話は別になる。その痛みはかくのごとくであると告げた揚句は、晩秋の小寒い雰囲気とあいまって、親としての情のありようをよく描出している。かれこれ半世紀前、私は父の望まぬ大学の望まぬ学部を受験すべく、勝手に願書を出してしまった。合格の通知を受けて父に報告すると、私の顔も見ずに、ただ一言「そうか」と言っただけだった。あれが、彼にははじめての「子の背信」だったのだろう。あのときにおそらく、父もまた静かな痛みを感じたにちがいないのである。青柳志解樹編『俳句の花・下』(1997)所載。(清水哲男)


November 28112006

 どれとなく彼方のものを鶴と指す

                           谷口智行

国大陸より渡ってくる鶴は「鶴来る」として秋の季題となり、丹頂鶴は北海道の湿原で留鳥として暮らす。しかし、単に「鶴」といえば冬の季題となる。言われてみれば、鶴ほど冷たい空気が似合う鳥もないだろう。その気高い姿を日本人は昔から愛してきた。それは吉兆の象徴となり、祝いごとの図案や装飾などに使われ、現在もっとも多く触れる機会としては、千円札の夏目漱石氏の裏側にある丹頂鶴「鶴の舞」だろうか。しかし、その象徴の偉大さは実物を大きく超えて存在する。掲句においても、鶴の姿がことさら眼前になくとも、指さし「鶴」と呟いた瞬間、その遥か彼方にあるものは鶴以外のなにものでもなくなる。その景色は指さすことで完結し、まるで鶴がいた風景に永遠に閉じ込められてしまったようである。句集名『藁嬶(わらかか)』は、藁屑にまみれて働く農家の主婦のことだそうで、「身じろぎもせざる藁嬶初神楽」から取られている。「ぶらんこに座つてゐるよ滑瓢(ぬらりひょん)」「縫へと言ふ猟犬の腹裂けたるを」「雪降るか歌よむやうに猿啼きて」など、作者の暮らす土地が匂うように立ち現れる。その風土のなかで「鶴とは、よそ者の目には決して見えない生きものなのですよ」と静かに言われれば、そうであったのか、と思わず納得してしまうような気になるのである。『藁嬶』(2004)所収。(土肥あき子)


November 29112006

 湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事

                           小沢昭一

く知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)


November 30112006

 外套のなかの生ま身が水をのむ

                           桂 信子

和30年代の冬は今より寒かった気がする。家では火鉢や練炭炬燵で暖をとり、今では当たり前のようになっている電車や屋舎での空調設備も整っていなかったように思う。時間のかかる通勤、通学にオーバーは欠かせない防寒衣。父が着ていた外套は毛布のようにずっしり重く、そびえる背中が暗い壁のようだった。厳しい寒さから身を守る厚手の外套は同時に柔らかな女の身体を無遠慮な世間の視線から守ってくれるもの。夫を病気で亡くし、戦争で家を焼失したのち長らく職にあった信子にとって、女である自分を鎧っていないと押し潰されそうになる時もあったのではないか。重い外套に心と身体を覆い隠して出勤する日々、口にした一杯の水の冷たさが外套のなかの生ま身のからだの隅々にまでしみ通ってゆく。その感触は外套に包み隠した肉体の輪郭を呼び起こすようでもある。逆に言えば透明な水には無防備であるしかないから厚い外套を着たまま水を飲んでいるのかもしれない。「生身」ではなく「生ま身」とひらがなを余しての表記に、外套からなまみの身体がのぞく痛さを感じさせる。彼女の俳句には緊張した日常の中でふっとほころびる女の心と身体が描かれていて、せつなくなる時がある。『女身』(1955)所収。(三宅やよい)




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