必修逃れ。なぜ高校は必修の迷惑を堂々と言わないのか。セコくなったね、教育者も。(哲




2006ソスN10ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 28102006

 セーターを手に提げ歩く頃が好き

                           副島いみ子

ーターは冬の季題だけれど、この句の季感は晩秋か。秋晴の朝。今はちょうどよいけれど夜は冷えるかも、かといってジャケットを持って歩くのも邪魔だしと、薄手のセーターを手にとり家を出る。駅までの道を歩きながら、小鳥の声を仰ぎ、青空を仰ぎ、きゅっと引き締まった空気を思いきり吸って、ああ、今頃が一番好きだなあ、とつぶやく言葉がそのまま一句となった。うれしい、楽しい、好き、などは、悲しい、寂しい、嫌いよりなお一層、句に使うことが難しい。「楽しい、と言わずに、その気持を表してみましょう」などと言われてしまう。この句は、好き、というストレートな主観語が、セーターという日常的なものに向けられることで、具体的になり共感を呼ぶ。同じページに〈何笑ふ毛絲ぶつけてやろかしら〉というのもある。丸くてやわらかい毛糸玉だからこそ、作者もくすくす笑っており、ほほえましい様子がうかがえる。何れも昭和三十年代、作者も三十代の頃の句。したがってセーターは、軽く肘を曲げ腕にかけているのであり、無造作に掴んだままだったり、間違っても腰に巻いたりはしない。副島(そえじま)いみ子氏近詠。〈まんまるき月仰ぎゐてつまづきぬ〉〈長生きもそこそこでよし捨扇(すておうぎ)〉『笹子句集第一』(1963)所載。(今井肖子)


October 27102006

 天つつぬけに木犀と豚にほふ

                           飯田龍太

が臭いのは豚のせいではなく、糞尿を処理してやらない人間のせいだと気づいたのは、僕が家畜試験場で暮していたから。豚はきれい好きな動物である。生まれたばかりの子豚の可愛さや放牧されている豚の賢さや個性は犬や猫と同じだ。小学生の僕が木切れをもって近づくと豚は一斉に柵の側に駆け寄って僕に背を向ける。木切れで背中を掻いてもらうためだ。「天つつぬけに」匂う対象として木犀と豚を同列に置いたのは、作者が豚の匂いを肯定的に捉えているからだと僕は思う。以前、或る雑誌の企画で、「世界中の子豚に捧げる」という文章を書いたとき、載せる写真を問われて、「僕が子豚を抱いているところを」と注文した。それは面白いかもということになり、雑誌社の方で子豚のいるところを探してもらうと、横浜市青葉区にある「こどもの国」という遊園地の中の動物園に子豚がいることが判明。僕は生まれたばかりの子豚を抱いてにこやかに撮られる自分を想像した。当日動物園に行くと、豚はいるにはいたが一抱えほどもあって、とても子豚とは言えない大きさ。どうしますと心配そうに聞くカメラマンに僕は「やるよ」と応えた。五、六頭が飼われている柵の中に僕は入り、逃げ回る奴等を追い回してようやく一頭を羽交い絞めにしたが、形相が怖かったらしく、しきりにカメラマンが「笑ってください」という。バックドロップのように抱き上げた豚の後足に蹴られながら無理に笑った泣き笑いの顔がその時の雑誌に載っている。このとき豚は確かに臭わなかったが、それは僕が必死だったせいかもしれない。『百戸の谿』(1954)所収。(今井 聖)


October 26102006

 女湯もひとりの音の山の秋

                           皆吉爽雨

和二十三年、「日光戦場ヶ原より湯元温泉」と前書きのあるうちの一句。中禅寺湖から戦場ヶ原を抜け、湯元温泉に行くまでの道は見事な紅葉で人気のハイキングコース。爽雨(そうう)もこれを楽しんだあと心地よく疲れた身体をのばして温泉につかったのだろう。今は日光からの直通バスで湯元まで簡単に行けるようだが、昔の旅は徒歩が基本。若山牧水の『みなかみ紀行』にも山道を伝って幾日もかけ、山間の温泉を巡る旅が書かれている。湯元は古くからの温泉地。掲句からは鄙びた温泉の静かな佇まいが伝わってくる。温泉の仕切りを隔てた隣から身体に浴びせかける湯の音や木の湯桶を下に置く音がコーンと響いてくる。「隣も一人。」旅の宿に居合わせ、たまたま自分と同じ刻に湯につかっている女客。顔も知らず、たぶん言葉を交わすこともなく別れてしまうであろう相手の気配へかすかな親しみを感じている様子が「ひとりの音」という表現から伝わってくる。ひそやかなその音は湯殿に一人でいる作者とともに読み手の心にも響き、旅情を誘う。「山の秋」という季語に山間の冷涼な空気と温泉宿を包んでいる美しい紅葉が感じられる。『皆吉爽雨句集』(1968)所収。(三宅やよい)




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