この冬は全国的に高めの気温 気象庁3カ月予報。最近の長期予報は外れが多い。(哲




2006N1026句(前日までの二句を含む)

October 26102006

 女湯もひとりの音の山の秋

                           皆吉爽雨

和二十三年、「日光戦場ヶ原より湯元温泉」と前書きのあるうちの一句。中禅寺湖から戦場ヶ原を抜け、湯元温泉に行くまでの道は見事な紅葉で人気のハイキングコース。爽雨(そうう)もこれを楽しんだあと心地よく疲れた身体をのばして温泉につかったのだろう。今は日光からの直通バスで湯元まで簡単に行けるようだが、昔の旅は徒歩が基本。若山牧水の『みなかみ紀行』にも山道を伝って幾日もかけ、山間の温泉を巡る旅が書かれている。湯元は古くからの温泉地。掲句からは鄙びた温泉の静かな佇まいが伝わってくる。温泉の仕切りを隔てた隣から身体に浴びせかける湯の音や木の湯桶を下に置く音がコーンと響いてくる。「隣も一人。」旅の宿に居合わせ、たまたま自分と同じ刻に湯につかっている女客。顔も知らず、たぶん言葉を交わすこともなく別れてしまうであろう相手の気配へかすかな親しみを感じている様子が「ひとりの音」という表現から伝わってくる。ひそやかなその音は湯殿に一人でいる作者とともに読み手の心にも響き、旅情を誘う。「山の秋」という季語に山間の冷涼な空気と温泉宿を包んでいる美しい紅葉が感じられる。『皆吉爽雨句集』(1968)所収。(三宅やよい)


October 25102006

 秋風や子無き乳房に緊く着る

                           日野草城

性がどう威張ってみても、また地団駄踏んでみても、彼から欠落しているのが乳房。まあ、筋肉がキリリと緊まった男性の胸も、それはそれで美しい。けれども、両者の美質はおのずと別である。堀口大學は詩で、乳房を「女の肉体の月あかり」「恋人のシャボン玉」と表現した。(セクハラなどと野暮は言うなかれ)掲出句は乳房そのものや、その美を直接詠もうとしているわけではない。ポイントはむしろ「緊(かた)く着る」にある。そのためにこそ乳房が必要なのである。秋風のなかへ外出するのだから、もちろん時季にふさわしいフォーマルな着物であろう。「子無き」と言っても、未婚の娘さんではなく既婚者であろう。まして西洋人のような巨乳ではない。立ち姿が形よく引き緊まって、凛としたエロチシズムが感じられる。品位があって隙がない。乳房だけでなくしっかりと抑えられた心身の緊張感までもが、さわやかな風にのってそっと匂ってくるようでもある。草城には、女性のエロチシズムを素材にした句が多い。しかし、乳房は男性が詠んでも女性が詠むにしても、容易な素材ではない。蛇笏は「大乳房たぷたぷ垂れて…」と健康さを詠み、草城の弟子・信子は「ふところに乳房ある憂さ…」と内面を詠んだ。『花氷』(1927)所収。(八木忠栄)


October 24102006

 腰おろす秋思の幅をあけ合ひて

                           亀田憲壱

の寂しさに誘われる物思いが秋思(しゅうし)であるという。この言葉に硬質の孤独を感じるのは、故郷を恋う杜甫の「万里悲秋」などの漢詩を敷く、ひとりの人間が抱く絶対の孤独や無常を思わせるからだろう。同じような心持ちを表す季語に「春愁(しゅんしゅう)」があるが、こちらは「春のそこはかとない哀愁。ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、半面ふっと悲しみに襲われることがある。」と解説される通り、どちらかというと他人の心と相反する自己を愛する気持ちが芯となり引き出されているようだ。春愁は心のどこかで人を求め、秋思は人を遠ざける。毛皮にも甲羅にも覆われていない人間は、心もまたむきだしで傷つきやすくできているように思えるが、全身を堅い甲羅で覆われている蟹にも脱皮する時期がある。脱皮を繰り返すことによって、身体を成長させ、また怪我した部分を再生させるのだが、この無防備で柔らかな身体の時間、蟹たちはお互いが傷付くことを怖れ、岩陰などにじっと潜んでいるという。掲句の発見である「秋思の幅」が、人間の傷つきやすい心をかばうように、無意識に取り合う距離なのだと思うと、そのにぎりこぶしひとつほどの空間が、とても大切で愛おしいものに見えてくる。『果肉』(2006)所収。(土肥あき子)




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