日本シリーズ開幕。といっても、今年はわくわくしない。東京はシーンとしてますよ。(哲




2006ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102006

 激し寄る四方の川水下り簗

                           星野立子

に簗(やな)というと夏季、魚簗とも書く。下り簗は秋季、文字通り川を下ってくる落鮎などを捕るための仕掛けである。今年の名月、関東地方は概ね無月であったが、深夜、雨で水かさの増えた栃木県の那珂川には、鮎三百キログラム(約五千匹?)、鰻百本が落ちたという。那珂川のみならず日本中のあちこちの川で、満月に鮎が次々に落ちていく、と想像すると幻想的である。落鮎の句を探して歳時記を開くと、隣の「下り簗」のところにこの句が。いかにも立子らしいと言われる句、ではない気もして調べると、昭和十一年、利根川での吟行句とわかる。句日記に「(簗は)想像してゐた以上の美事なものだと思ふ。」とあるので、簀(す)を張り渡した本格的なものだったのだろう。初めて目にする簗、川原に相当長い時間立ち続けていたようである。その足に、力強い水音が絶えず響いている。秋の日差しは思いの外強く、簀にぶつかった白い水しぶきに吹き上げられて鮎がはね、小石がはねる。激し寄る、に見える僅かな主観は季題にのみ向けられ、四方(よも)の川水が、一気に簗に落ち込んでいく。蝶に目をとめて一句、釣り人に会い一句、この日の吟行句、書き残されているものは十四句だが、呼吸をするように作句していたことだろう。俳句は自分のために作るもの、ただ作っているときは、本当に楽しい。息抜きにもなったであろう吟行だが、じっと川を観ている立子の凛とした姿が浮かぶ。『虚子編新歳時記』増訂版(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


October 20102006

 古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

                           伊丹三樹彦

季の句。「仏」の持つ従来の俳句的情緒を逆手にとって、情況に対する危機感を詠じた。海の彼方の国のテロが、瞬時に我々の現実となり得る現代をこの句は描いている。作者は日野草城主宰誌「青玄」に参加、草城没年(1956)に主宰を継承。「青玄」は、2005年に創刊六百号を迎えたあと、本年一月に終刊した。草城の拓いた同時代詩としての俳句の在り方を継いで、作者は現代語による表記を標榜。現代語の多様性がもたらす切れの位置の複雑さを、作り手の側から明確に示すために「分かち書き」を提唱、雑誌全体で実践してきた。「千手」と「遠く」の間の空白の一マスがそれである。同じ無季の句でやはり状況を詠った「屋上に洗濯の妻空母海に」(金子兜太)と並べて置いてみると、日常に隣接している暴力即ち「政治」を描くに当って、まず視覚的な構成から入る兜太作品に比べ、この句は、「仏」の持つ聖性が、むしろ観念としてテロを相対化していることがわかる。いわゆる「人間探求派」と「新興俳句派」という、両者の出自に関わる違いと言えなくもない。観念派と目される「人間探求派」が実は視覚的現実に重きを置き、「新興俳句派」のイメージや言葉が実は従来の俳句的情緒を梃子にしていることがうかがえる。二人とも俳句の新しい可能性を拓くために固定的な手法と闘ってきた現代俳句の闘将である。『樹冠』(1985)所収。(今井 聖)


October 19102006

 秋風や酒で殺める腹の虫

                           穴井 太

きぬける風が身にしむ頃となってきた。ビールから熱燗に切り替えた人も多いのではないか。酒好きの人ならひとりでふらりと寄れる居酒屋の一軒ぐらいはあるだろう。掲句からは馴染みの店で黙々と盃を重ねる男の姿が思い浮かぶ。「風動いて虫生ず。虫は八日にして化す」四季折々の風が吹いてその季節の虫を生じるとか。穴井太も山頭火の評論にこの風の字解を引用しており、この句にもその考えは自ずと反映されているだろう。虫が好かない。虫唾が走る。「虫の成語には科学的根拠は乏しく、人間の心の感情を指している。何か心を騒がせ、制御しきれない動きをする。」と穴井は述べる。収まりのつかない腹の虫を生じる秋風は世間の冷たい風の意を同時に含んでいるのかもしれない。四六時中世間の風に吹かれていれば殺めたい腹の虫はいくらでもわいて出てくるだろう。腹の虫を酒で殺め、腹立つ気持ちにけりを付けて家路をたどるか、虫もろとも酔いつぶれて電車のシートに沈むか。そんな男の飲み方に比べ女の場合たいていは友達連れで屈託がない。腹の虫を酒で殺めるというより、酒にもらう元気で虫を外へたたき出しているようではある。『穴井太句集』(1994)所収。(三宅やよい)




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