2006N1019句(前日までの二句を含む)

October 19102006

 秋風や酒で殺める腹の虫

                           穴井 太

きぬける風が身にしむ頃となってきた。ビールから熱燗に切り替えた人も多いのではないか。酒好きの人ならひとりでふらりと寄れる居酒屋の一軒ぐらいはあるだろう。掲句からは馴染みの店で黙々と盃を重ねる男の姿が思い浮かぶ。「風動いて虫生ず。虫は八日にして化す」四季折々の風が吹いてその季節の虫を生じるとか。穴井太も山頭火の評論にこの風の字解を引用しており、この句にもその考えは自ずと反映されているだろう。虫が好かない。虫唾が走る。「虫の成語には科学的根拠は乏しく、人間の心の感情を指している。何か心を騒がせ、制御しきれない動きをする。」と穴井は述べる。収まりのつかない腹の虫を生じる秋風は世間の冷たい風の意を同時に含んでいるのかもしれない。四六時中世間の風に吹かれていれば殺めたい腹の虫はいくらでもわいて出てくるだろう。腹の虫を酒で殺め、腹立つ気持ちにけりを付けて家路をたどるか、虫もろとも酔いつぶれて電車のシートに沈むか。そんな男の飲み方に比べ女の場合たいていは友達連れで屈託がない。腹の虫を酒で殺めるというより、酒にもらう元気で虫を外へたたき出しているようではある。『穴井太句集』(1994)所収。(三宅やよい)


October 18102006

 三井銀行の扉の秋風を衝いて出し

                           竹下しづの女

行員が詠んだ俳句はたくさんあるわけだろうが、名指しではっきりと銀行名を詠み込んだ大胆な俳句を、私は寡聞にして知らない。のっけから「三井銀行」とは、あっぱれ。いかにもしづの女(じょ)らしい。ちなみに同行は私盟会社として明治九年に創立されている。現・三井住友銀行。人は好むと好まざるとにかかわらず、さまざまな事情を抱えて銀行に出入りするわけだが、「衝いて出し」ときの秋風はさわやかで心地良かったのか、あるいは耐えられないものだったのか。しづの女のよく知られている句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」とか、他の句にある「…ぶつかり来」「…ピアノ弾け」などの強い表現に敢えてこだわって類推すると、憤然と、あるいは昂然と銀行の頑丈な扉を押し開けて外へ出て、秋風に立ち向かって行くような勢いが感じられてならない。いや「扉の秋風」ゆえ、ここでは扉そのものがもはや秋風なのであり、外なる秋風への入口そのものなのだろう。川名大は、しづの女について「姉御肌の人柄で、知性と意力と熱情の溢れた力強い母性の行動力が特色」とコメントしている。杉田久女を含めて、こういう女性も「ホトトギス」に所属していたのだ。川名大『現代俳句・上』(2001)所載。(八木忠栄)


October 17102006

 小鳥来るはじめて話すことばかり

                           明隅礼子

語「小鳥来る」は、秋に渡ってくる鳥のなかでも鶇(つぐみ)、鶸(ひわ)などの鳥に限定されて使われる。身体の小さな鳥たちが賑やかにさんざめく様子もさることながら、「コトリクル」の愛らしい響きには華やぎがあり、続く「はじめて話すことばかり」の調べにも明るいきらめきを感じる。並ぶ句に「胎の子の四方は闇なり虫の夜」とあることから、掲句もおそらくお腹の子へ語りかけているのだと推察する。というのも「話す」の文字を使ってはいても、どこか人の気配を感じさせない静謐さを漂わせているからだ。とかく秋という季節が持つ背景が、ひとりきりの空気を引き出すからだろうか。小鳥たちが頭を寄せ合う景色をゆるやかにまとい、静かにひとりごちている作者の姿がある。そこから見える風景や、自分のこと、家族のこと、そしてどんなにかあなたをみんなが待っていること。清らかな秋の光りに包まれ、それは歌うようにいつまでも続き、お腹の子が耳にするはじめての子守唄となっていることだろう。精神的な父親の自覚と違い、母親の自覚は常に肉体的なものだが、女性も出産と同時に瞬時に母親になるのではない。自分のなかにもうひとつの命のある不思議さを躊躇なく受け入れたときから、こうして胎児と濃密なふたりきりの時間をじゅうぶん過ごしつつ、母性は茂る葉のように育っていくのだろう。「はらはらと麒麟は青葉食べこぼし」「しやぼん玉はじめ遠くへ行くつもり」なども羨望の句。『星槎』(2006)所収。(土肥あき子)




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