2006N1014句(前日までの二句を含む)

October 14102006

 林檎掌にとはにほろびぬものを信ず

                           國弘賢治

弘賢治の名前は、〈みつ豆はジャズのごとくに美しき〉の句の透明感と共に記憶の隅に。最近、彼が八歳の時に脊髄カリエスを発病し、四十七年間の生涯を病と共に過ごしたと知ったが、みつ豆の句の印象は明るい。『賢治句集』を開くと、下駄の裏を大きく見せてぶらんこを漕ぐ写真に〈佝僂(くる)の背に翅生えてをりぶらんここぐ〉の一句が添えられている。うれしそうな笑顔である。みつ豆の句は、句作を始めて間もない昭和二十四年、三十七歳の作。〈繪をかいてゐる子の虹の匂ひかな〉〈雪の日のポストが好きや見てをりぬ〉自由でやわらかい句が続く。宗教を頼んでいた時よりも俳句を始めてからの方が、解放された安らかさを得ている、という意の一文を残しているというが、身ほとりを詠み病を詠んだ句からは、作意や暗さはもちろん、健気さや、達観の匂いさえしない。昭和二十二年から亡くなる昭和三十四年まで、虚子選三百九十一句を収めたこの遺句集の、三百九十句目が掲句である。とは、は永遠(とわ)。林檎は紅玉、小ぶりでつややかな紅色と甘酸っぱさが、当時は最も親しい果物のひとつであったろう。その結実した生命を掌に包んだ時、滅びようとする肉体の中から、自らをも含む全ての生に対する慈しみがあふれ、それが一筋の静かな涙と共に一句をなした気がしてならない。病と共にある人生を、自然に、淡々と詠んだ数々の句の中に、國弘賢治は確かに生き続けている。『賢治句集』(1991)所収。(今井肖子)


October 13102006

 ちちろほそる夜や屋根赤い貯金箱

                           和知喜八

ういう句を読むと、俳句の定型と季題がもたらす効用と限界を考えないわけにはいかない。この句、「蟋蟀や」とか、「ちちろ鳴く」くらいでまとめれば、造作もなく定型に収まる。「ちちろほそる夜や」の意図は何なのだろうか。蟋蟀は昼も鳴くから、「夜」の設定についての意図はわかる。ここは冗漫とは言えない。定型遵守派と意見が分かれるのは「ほそる」だろう。定型の効用と季題の本意中心の句作りを唱えるひとは、「ほそる」は、「ちちろ鳴く」の本意に含まれると言うかもしれない。「ほそる」は言わずもがな、表現が冗漫だと。作者は「ほそる」で、どうしても蟋蟀をそのとき、そこで鳴かせたかった。季題としての「ちちろ鳴く」でなくて、自分がその時聴いた「本当」の蟋蟀の声を表現したかった。季題は、ときにナマのリアルを犠牲にして、そこにまつわる古い情趣を優先させるかに見える。作者はそれを拒否したのだ。定型からはみ出すことで敢て韻律に違和感を生じさせる。滑らかに運ばないごつごつした違和感はそのまま作者の「個」を浮き彫りにする。それもこれもただただ「リアル」への意図である。貯金箱は生活の中の希望の象徴。「屋根赤い」もまた「リアル」への志向。作者は加藤楸邨門。対象に喰いついたらどこまでも追いつめる姿勢を評価した師から「スッポン喜八」の異名を付けられた。『和知喜八句集』(1970)所収。(今井 聖)


October 12102006

 新聞を大きくひらき葡萄食ふ

                           石田波郷

朝の駅で買った新聞をお見舞に差し入れたことがある。長らく入院していたその人は紙面に顔を近づけると「ああいい匂いだ」と顔をほころばした。真新しいインクの匂いは一日の始まりを告げる朝の匂い。朝刊を食卓にひろげ置いて、たっぷりと水気を含んだ葡萄を一粒ずつ口に運ぶ。「大きくひらき」という表現に、紙面にあたる朝の光や、窓から流れ込んでくる爽やかな空気が感じられる。葡萄は食べるのに手間がかかる果物。記事を目で追いつつ手を使って含んだ葡萄の粒からゆっくり皮と種をはずす。片手で吊り革に掴まり、細長く折った新聞をささえ読むのとは違う自分だけの朝の時間だ。そのむかし、巨峰、マスカット、といった大粒品種は値段も高く、普段の生活で気楽に食べられる果物ではなかった。今でも柿や無花果といった普段着の果実にくらべ大きな房の垂れ下がる葡萄は色といい、形といいどこかお洒落でエキゾチックな雰囲気を漂わせている。この句のモダンさはそんな葡萄の甘美な印象と軽いスケッチ風描写がよく調和しているところにあるのかもしれない。とある朝の明るく透明な空気が読むたびに伝わってくる句だ。『鶴の眼』(1939)所収。(三宅やよい)




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