安倍訪中。それ自体が新政権の得点になったが、はて中国に何点借りができたのか。(哲




2006ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09102006

 虫の夜の寄り添ふものに手暗がり

                           黛まどか

句で「虫」と言えば秋に鳴く虫のことだが、草むらですだく虫たちを指し、蝉などは除外する。そろそろ肌寒さを覚えるようになった頃の秋の夜、ひとり自室で虫の音を聞いていると、故知れぬ寂しい感情に襲われることがある。しょせん、人はひとりぼっち‥‥。そんな思いにとらわれてしまうのも、そうした夜のひとときだ。無性に人恋しくなったりして、そのことがまた寂しさを募らせる。この寂しい気持ちを癒すために、何かに寄り添いたい、いや何かに寄り添ってもらいたい。自然にわいてくるこの感情のなかで、作者はふと自分の手元に視線をやった。最前まで本をよんでいたのか、書き物でもしていたのか。手元をみつめると、そこに「手暗がり」ができている。読書や書き物に手暗がりはうっとうしい限りだけれど、いまの作者の寂しい感情はそれすらをも、自分に寄り添ってくれているものとして、いとおしく感じられたということである。形容矛盾かもしれないが、このときに作者が感じたのは、心地よい寂寥感とでも言うべき心持ちだ。この種のセンチメンタリズムの奥にあるのは、おそらく自己愛であろうから、一歩間違えると大甘な句になってしまう。そこを作者は巧みに避けて、その心持ちを小さな手暗がりにのみ投影させたことにより、読者とともに心地よい寂寥感を共有することになった。『忘れ貝』(2006)所収。(清水哲男)


October 08102006

 秋高しなみだ湧くまで叱りおり

                           津根元 潮

情とは不思議なものです。自分のものでありながら、時として自己の制御の及ばないところへ行ってしまいます。この句を読んで誰しもが思うのが、何があったのだろう、何をいったい叱っているのだろうということです。「秋高し」と、いきなり空の方へ読者の視線を向けさせて、一転、その視線が地上へ降りてきて、人が人を叱っている場面に転換します。高い空をいただいた外での出来事であったのか、あるいは大きく窓を開けた室内のことであったのか。どちらにしても叱責の声はそのまま空へ響いています。「まで」という語が示すとおり、いきなり怒鳴りつけたのではなく、切々と説いていた感情が、徐々に自己の中でせりあがり、ある地点を越えたところで、涙とともに堰を切ってしまったようです。ひらがなで書かれた「なみだ」が、怒りでなく、叱るものの悲しみをよく表現しています。相手のことを思う気持が深いからこそ、叱るほうの感情も、逃げ場のないところへいってしまったのでしょう。その叱責は、どこまでも高い空の奥へ、生きることの困難さを訴えかけている声にも聞こえてきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


October 07102006

 十六夜や手紙の結びかしこにて

                           佐土井智津子

秋は、近年まれに見る月の美しい秋だった。ことに九月十八日(十五夜)は、まさに良夜(りょうや)、名月はあらゆるものを統べるように天心に輝いていた。十五夜の翌日の夜、またはその夜の月が十六夜(いざよい)。現在は、いざよい、と濁って読むが、「いさよふ」(たゆたい、ためらう)の意で、前夜よりやや月の出が遅くなるのを、ためらっていると見たという。満月の夜、皓々と輝く月を仰ぐうち、胸の奥がざわざわと波立ってくる。欠けるところのない月に圧倒され、さらに心は乱れる。そして十六夜。うっすらと影を帯びた静かな月を仰ぐ時、ふと心が定まるのだ。一文字一文字に思いをこめながら書かれた手紙は「かしこ」で結ばれる。「かしこ」は「畏」、「おそれおおい」から「絶対」の意を含み、仮名文字を使っていた平安時代の女性が「絶対に他人には見せないで」という意をこめて、恋文の文末に書いたという。今は恋文はおろか、手紙さえ珍しくなってしまったが、そんな古えの、月にまつわる恋物語をも思わせるこの句は、昨年「月」と題して発表された三十句のうちの一句である。あの昨秋のしみるような月と向き合って、作者の中の原風景が句となったものだときく。〈名月や人を迎へて人送り〉〈月光にかざす十指のまぎれなし〉。伝統俳句協会機関誌『花鳥諷詠』(2006年3月号)所載。(今井肖子)




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