2006N10句

October 01102006

 はなれゆく人をつつめり秋の暮

                           山上樹実雄

17文字という小さな世界ですから、一文字が変わるだけで、まるで違った姿を見せます。はじめ私はこの句を、「はなれゆく人をみつめり秋の暮」と、読み違えました。もしそのような句ならば、自分から去ってゆく人を、未練にも目で追ってゆくせつない恋の句になります。しかし、一文字を差し替えただけで、句は、その様を一変します。掲句、人をつつんでゆくのは秋の暮です。徐々に暗さを増し、ものみなすべての輪郭をあやふやにし、去る人を暗闇に溶け込ませてしまいます。去ってゆく後姿に、徐々にその暗闇は及び、四方から優しい手が伸びてきて、やわらかい布地でからだをつつんでゆくようです。「つつめり」というあたたかな動作を示す動詞が、句に、言い知れぬ穏やかさをもたらしています。あるいは、つつんでゆくのは、秋の暮ではなく、見送るひとのまなざしなのかもしれません。去るひとの行末に危険が及ばないようにという、その思いが後方から、祈りのようにかぶさってゆきます。どのような軽い別れも、確かな再会を保証するものではありません。「じゃあ」といって去ってゆく人の後ろ姿に、いつまでも目が放せないのは、当然のことなのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 02102006

 芋煮会遊び下手なる膝ばかり

                           山尾玉藻

語は「芋煮会」で秋。俳句で「芋」といえば「里芋」のことだ。名月のお供えも里芋である。句集ではこの句の前に「遊ばむと芋と大鍋提げ来る」とあるから、予定なしに急遽はじまった芋煮会なのだろう。それも小人数だ。一瞬、その場に楽しげな雰囲気が漂った。が、いざ大鍋を囲んでみると、なんだかみんな神妙な顔つきになってしまった。こういうときにはワイワイやるのがいちばんで、誰もが頭ではわかっているはずなのだが、いまひとつ盛り上がらない。冗談一つ出るわけでもなく、みんな鍋の中ばかりを見ている。むろん作者もその一人で、ああなんてみんな「遊び下手」なんだろうと、じれったい思いはするのだが、自分からその雰囲気をやわらげる手だては持っていない。自分への歯がゆさも含めて見回すと、揃ってみんなの「膝」が固く見えたというのである。こういうときに、人は人の顔を真っすぐ見たりはしない。俯くというほどではないけれど、なんとなく視線は下に向きがちになる。ささやかな遊びの場に、そんな人情の機微をとらえ、みんなの「膝」にそれとなく物を言わせたところに、揚句の手柄がある。私も遊び下手を自覚しているから、こんな思いは何度もしてきた。その場に一人でも盛り上げ役がいないと、どうにもならないのだ。友人には遊び上手なのが何人かいて、会っていると、いつも羨ましさが先に立つ。どうしたらあんなに楽しめるのだろうかと、つくづく我が性(さが)が恨めしく思われる。『かはほり』(2006)所収。(清水哲男)


October 03102006

 名月や江戸にいくつの潮見坂 

                           吉岡桂六

伏の多い東京には神楽坂、九段坂、道玄坂、と坂の付いた地名が今も多く残る。これらの地名はそれぞれ生活に密着したものだが、富士見坂、江戸見坂、潮見坂などはそこから何が見えるかという眺望によって名付けられた。永井荷風の『日和下駄』に「当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に佇むと市中の屋根を越して遥かに海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)」という一節がある通り、そこから見えるものがそこに暮らす者の誇りであった。富士山を見上げ、海原を眺めて日々を暮らしていた頃には、旅人もまた道中垣間見える海を眺めて心を休めていた。はるかに浮かぶ真帆白帆。現在でも山や月を見上げることはできるが、海を望む場所はもはや高層ビルの展望台に立たない限り無理だろう。しかし潮見坂の文字を思う都度、人が海を恋い慕う気持ちが付けた名なのだとあたたかく思い起こす。十五夜まであと3日。だんだん丸くなってゆく月に、各所の潮見坂から海を眺めた人々の姿を重ねる。『東歌』(2005)所収。(土肥あき子)


October 04102006

 木曽節もいとどのひげの顫へかな

                           中村真一郎

曽節は木曽谷一帯でうたわれる盆踊唄だが、♪木曽のナァー中乗りさん、木曽の御岳さんはナンジャラホイ・・・・有名な歌詞で全国で知られている。「いとど」は竈馬(かまどうま)のことで秋の季語。「かまどむし」「おかまこおろぎ」とも呼ばれる。「竈」なんて、今や若い人はもちろん中年だって知らないだろう。ご飯を炊いたカマドのことです。落語に登場する「へっつい」がこれ。「へっつい幽霊」「へっつい泥棒」の「へっつい」なんて見たこともない若い噺家が高座で、笑いをとっているのも妙。よく間違われる「こおろぎ」とは別種であって、脚は長いが、翅もないし、鳴かない。あまり冴えない虫である。かつて私の生家の竈のかげの暗がりや納屋の湿ったすみっこから、ヒョンヒョンという感じで何匹もとび出してきて、びっくりした経験がある。もちろん、生家でもとっくに竈の姿なんぞどこへやら。真一郎は師の堀辰雄が亡くなった初盆にこの句を信州で詠んだらしい。おそらく追分の油屋旅館にいて師を偲んでいたのだろう。旅館内かどこかで誰かがうたう木曽節が、聴くともなく聴こえてきたけれども、秋の宿はうら寂しい。木曽節は谷間に反響する寂しい唄だ。そんなところへ、どこからともなく侘しげないとどがヒョンヒョンとやってくる。こまかく顫えるひげのうら寂しさに着目した。木曽節もいとどももの悲しく、心細いばかりの師亡き信州の寒々とした秋の夜である。真一郎には『俳句のたのしみ』という一冊もある。私家版『樹上豚句抄』(1993)所収。(八木忠栄)


October 05102006

 運動会の地面をむしろ多く見る

                           阿部青鞋

の頃は一学期のうちに終えてしまう学校も多いようだが、運動会といえば九月末から十月にかけて行われるのが相場。朝早くから学校に出向いて観客席を確保した経験を持つ人も多いのではないか。茣蓙やビニールシートをコーナーぎりぎりに広げたので、駆けて来る子が勢いあまって観客席に飛び込むハプニングもあった。地べたに座り込んで競技を追う目線を思うと「地面をむしろ多く見る」という捉え方はもっともで、そう言われて初めて土を蹴立てて走ってくる日焼けした脚や、スタートラインに並ぶ運動靴、競技と競技の合間のがらんとしたグラウンドなどが、現実味を帯びた記憶として甦ってくる。運動会を詠むのに運動会の高揚した気分や競技ではなく冷たい地面に着目する。「むしろ」という比較表現でその上に展開している情景を暗黙のうちに立ち上がらせる手腕。青鞋(せいあい)の句は固定観念にとらわれた見方をすっとずらし、在るがままの風景を見せてくれる。「水鳥の食はざるものをわれは食ふ」「ゆびずもう親ゆびらしくたゝかえり」『俳句の魅力』(1995)所載。(三宅やよい)


October 06102006

 梨剥くと皮垂れ届く妻の肘

                           田川飛旅子

調「写生」というのがあるとすれば、こういう句を言うのではないか。花鳥風月にまつわる古い情趣を「俳諧」と呼び、季語の本意を描くと称して類型的発想の言い訳に用いる。そんな「写生」の時代が長くつづいた。否、続いていると言った方がいい。子規が提唱した「写生」の論理はいつしか神社仏閣老病死の情緒へとすり替わっていった。ものを写すことの意味は「瞬間」を捉えることだ。なぜ「瞬間」を捉えるのか、それは、「瞬間」が「永遠」に通じるからだ。人は「瞬間」をそこにとどめることで「永遠」への入り口を見出したいのだ。それは「死」を怖れる感情に通じている。この句には作者によって捉えられた「瞬間」が提示されている。対象の焦点である「皮」を捉える精確な角度と描写。形容詞、副詞の修飾語を廃しての緊張した詩形。文体としての特徴は「と」にある。「写生」が抹香臭くなったのは、文体がパターン化したのも理由のひとつである。この「と」は従来の「写生」の文体の枠から出ている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)


October 07102006

 十六夜や手紙の結びかしこにて

                           佐土井智津子

秋は、近年まれに見る月の美しい秋だった。ことに九月十八日(十五夜)は、まさに良夜(りょうや)、名月はあらゆるものを統べるように天心に輝いていた。十五夜の翌日の夜、またはその夜の月が十六夜(いざよい)。現在は、いざよい、と濁って読むが、「いさよふ」(たゆたい、ためらう)の意で、前夜よりやや月の出が遅くなるのを、ためらっていると見たという。満月の夜、皓々と輝く月を仰ぐうち、胸の奥がざわざわと波立ってくる。欠けるところのない月に圧倒され、さらに心は乱れる。そして十六夜。うっすらと影を帯びた静かな月を仰ぐ時、ふと心が定まるのだ。一文字一文字に思いをこめながら書かれた手紙は「かしこ」で結ばれる。「かしこ」は「畏」、「おそれおおい」から「絶対」の意を含み、仮名文字を使っていた平安時代の女性が「絶対に他人には見せないで」という意をこめて、恋文の文末に書いたという。今は恋文はおろか、手紙さえ珍しくなってしまったが、そんな古えの、月にまつわる恋物語をも思わせるこの句は、昨年「月」と題して発表された三十句のうちの一句である。あの昨秋のしみるような月と向き合って、作者の中の原風景が句となったものだときく。〈名月や人を迎へて人送り〉〈月光にかざす十指のまぎれなし〉。伝統俳句協会機関誌『花鳥諷詠』(2006年3月号)所載。(今井肖子)


October 08102006

 秋高しなみだ湧くまで叱りおり

                           津根元 潮

情とは不思議なものです。自分のものでありながら、時として自己の制御の及ばないところへ行ってしまいます。この句を読んで誰しもが思うのが、何があったのだろう、何をいったい叱っているのだろうということです。「秋高し」と、いきなり空の方へ読者の視線を向けさせて、一転、その視線が地上へ降りてきて、人が人を叱っている場面に転換します。高い空をいただいた外での出来事であったのか、あるいは大きく窓を開けた室内のことであったのか。どちらにしても叱責の声はそのまま空へ響いています。「まで」という語が示すとおり、いきなり怒鳴りつけたのではなく、切々と説いていた感情が、徐々に自己の中でせりあがり、ある地点を越えたところで、涙とともに堰を切ってしまったようです。ひらがなで書かれた「なみだ」が、怒りでなく、叱るものの悲しみをよく表現しています。相手のことを思う気持が深いからこそ、叱るほうの感情も、逃げ場のないところへいってしまったのでしょう。その叱責は、どこまでも高い空の奥へ、生きることの困難さを訴えかけている声にも聞こえてきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


October 09102006

 虫の夜の寄り添ふものに手暗がり

                           黛まどか

句で「虫」と言えば秋に鳴く虫のことだが、草むらですだく虫たちを指し、蝉などは除外する。そろそろ肌寒さを覚えるようになった頃の秋の夜、ひとり自室で虫の音を聞いていると、故知れぬ寂しい感情に襲われることがある。しょせん、人はひとりぼっち‥‥。そんな思いにとらわれてしまうのも、そうした夜のひとときだ。無性に人恋しくなったりして、そのことがまた寂しさを募らせる。この寂しい気持ちを癒すために、何かに寄り添いたい、いや何かに寄り添ってもらいたい。自然にわいてくるこの感情のなかで、作者はふと自分の手元に視線をやった。最前まで本をよんでいたのか、書き物でもしていたのか。手元をみつめると、そこに「手暗がり」ができている。読書や書き物に手暗がりはうっとうしい限りだけれど、いまの作者の寂しい感情はそれすらをも、自分に寄り添ってくれているものとして、いとおしく感じられたということである。形容矛盾かもしれないが、このときに作者が感じたのは、心地よい寂寥感とでも言うべき心持ちだ。この種のセンチメンタリズムの奥にあるのは、おそらく自己愛であろうから、一歩間違えると大甘な句になってしまう。そこを作者は巧みに避けて、その心持ちを小さな手暗がりにのみ投影させたことにより、読者とともに心地よい寂寥感を共有することになった。『忘れ貝』(2006)所収。(清水哲男)


October 10102006

 とどまらぬ水とどまらぬ雲の秋

                           若井新一

霖(しゅうりん)と呼ばれる秋の長雨が明け、文字通り天高く澄み渡る青空になるのは、ようやくこれからの日々だろう。寝転んでいるのか、はたまた仁王立ちに空を仰いでいるのか、豊かな水が湧く大地と、薄く流れる雲に挟まれる心地良さを掲句に思う。作者は新潟県南魚沼市在住とあるので、おそらく無粋な電線にさえぎられることのない、どこまでも続く秋の空をほしいままにしているのだろう。正岡子規が「春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く」と記したように、ごつごつと伸びあがる夏の雲と違い、秋の雲は水平に風に乗って広がっていく。空色の画用紙にひと筆を伸ばしたような雲や、はるかかなたを目指す仲間たちのようなうろこ雲の集団が頭上を流れる様子に、ふと海の底を覗き込んでいるような錯覚を起こす。川は山から海へ向かい、雲は風まかせに流れ、地球も自転し、ひいては時間も流れているのだと思うと、人はこんなにも縦横無尽に動くもののなかで生きているのかと、めまいする気分はますます深まる。底が抜けたような空の青さが、心もとない不安を一層募らせるからだろうか。お天気博士倉嶋厚氏の著書のなかで「cyanometry(青空測定学)」という言葉を見つけた。青空を測定・研究する学問で、測定の一つに、青さの異なる8枚のカードと比較し、空の青さを分類していく方法があるのだという。もしかしたら、カードの一枚には「不安を覚えるほどの青」という色があるかもしれない。『冠雪』(2006)所収。(土肥あき子)


October 11102006

 渋柿の滅法生りし愚さよ

                           松本たかし

かしについての予備知識もなく彼の俳句を読んだおり、何といっても「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」に脱帽してしまった。以来、鼓を聴く機会があるたびにこの句を思い出してしまう。困った。チゝポゝ‥‥の句は第二句集『鷹』(1938)に収められたが、第三句集『野守』にも再録されている。果物は一般に熟成するにしたがって甘くなるはずなのに、渋柿は渋柿のままで意地を通す。お愛想なんぞ振りまかない。いいじゃないか。私はそこが気に入っている。甘柿と同じように秋の陽を浴びても、頑としてあくまでも渋いのである。もちろん渋柿も時間をかけて熟柿になったときの、あのトロリとした食感といい、コクのある甘さといい、あれは絶品。干柿や樽抜きにしても、一転してのあの甘さ! しかし、甘柿ならともかく、渋柿が豊作になったところで、どうしてくれる?――というのがわれわれの気持ち。渋柿がどんなにたわわに生ったところで、子供ならずとも「なあんだ」とがっかり。拍子抜けというよりも、鈴生りになるほど愚しくさえ感じられる。渋柿には何の罪もないけれど、滅法生ったことによる肩身の狭さ。得意げに鈴生りを誇っていないで、「憎まれっ子、世に憚る」くらいのことは見習ったら(?)。「愚さよ」は、ここでは渋柿に対してだけでなく、渋柿の持主に対しても向けられていることを見逃してはならないだろう。持主あわれ。でも、どことなくユーモラスな響きも感じられるではないか。『野守』(1941)所収。(八木忠栄)


October 12102006

 新聞を大きくひらき葡萄食ふ

                           石田波郷

朝の駅で買った新聞をお見舞に差し入れたことがある。長らく入院していたその人は紙面に顔を近づけると「ああいい匂いだ」と顔をほころばした。真新しいインクの匂いは一日の始まりを告げる朝の匂い。朝刊を食卓にひろげ置いて、たっぷりと水気を含んだ葡萄を一粒ずつ口に運ぶ。「大きくひらき」という表現に、紙面にあたる朝の光や、窓から流れ込んでくる爽やかな空気が感じられる。葡萄は食べるのに手間がかかる果物。記事を目で追いつつ手を使って含んだ葡萄の粒からゆっくり皮と種をはずす。片手で吊り革に掴まり、細長く折った新聞をささえ読むのとは違う自分だけの朝の時間だ。そのむかし、巨峰、マスカット、といった大粒品種は値段も高く、普段の生活で気楽に食べられる果物ではなかった。今でも柿や無花果といった普段着の果実にくらべ大きな房の垂れ下がる葡萄は色といい、形といいどこかお洒落でエキゾチックな雰囲気を漂わせている。この句のモダンさはそんな葡萄の甘美な印象と軽いスケッチ風描写がよく調和しているところにあるのかもしれない。とある朝の明るく透明な空気が読むたびに伝わってくる句だ。『鶴の眼』(1939)所収。(三宅やよい)


October 13102006

 ちちろほそる夜や屋根赤い貯金箱

                           和知喜八

ういう句を読むと、俳句の定型と季題がもたらす効用と限界を考えないわけにはいかない。この句、「蟋蟀や」とか、「ちちろ鳴く」くらいでまとめれば、造作もなく定型に収まる。「ちちろほそる夜や」の意図は何なのだろうか。蟋蟀は昼も鳴くから、「夜」の設定についての意図はわかる。ここは冗漫とは言えない。定型遵守派と意見が分かれるのは「ほそる」だろう。定型の効用と季題の本意中心の句作りを唱えるひとは、「ほそる」は、「ちちろ鳴く」の本意に含まれると言うかもしれない。「ほそる」は言わずもがな、表現が冗漫だと。作者は「ほそる」で、どうしても蟋蟀をそのとき、そこで鳴かせたかった。季題としての「ちちろ鳴く」でなくて、自分がその時聴いた「本当」の蟋蟀の声を表現したかった。季題は、ときにナマのリアルを犠牲にして、そこにまつわる古い情趣を優先させるかに見える。作者はそれを拒否したのだ。定型からはみ出すことで敢て韻律に違和感を生じさせる。滑らかに運ばないごつごつした違和感はそのまま作者の「個」を浮き彫りにする。それもこれもただただ「リアル」への意図である。貯金箱は生活の中の希望の象徴。「屋根赤い」もまた「リアル」への志向。作者は加藤楸邨門。対象に喰いついたらどこまでも追いつめる姿勢を評価した師から「スッポン喜八」の異名を付けられた。『和知喜八句集』(1970)所収。(今井 聖)


October 14102006

 林檎掌にとはにほろびぬものを信ず

                           國弘賢治

弘賢治の名前は、〈みつ豆はジャズのごとくに美しき〉の句の透明感と共に記憶の隅に。最近、彼が八歳の時に脊髄カリエスを発病し、四十七年間の生涯を病と共に過ごしたと知ったが、みつ豆の句の印象は明るい。『賢治句集』を開くと、下駄の裏を大きく見せてぶらんこを漕ぐ写真に〈佝僂(くる)の背に翅生えてをりぶらんここぐ〉の一句が添えられている。うれしそうな笑顔である。みつ豆の句は、句作を始めて間もない昭和二十四年、三十七歳の作。〈繪をかいてゐる子の虹の匂ひかな〉〈雪の日のポストが好きや見てをりぬ〉自由でやわらかい句が続く。宗教を頼んでいた時よりも俳句を始めてからの方が、解放された安らかさを得ている、という意の一文を残しているというが、身ほとりを詠み病を詠んだ句からは、作意や暗さはもちろん、健気さや、達観の匂いさえしない。昭和二十二年から亡くなる昭和三十四年まで、虚子選三百九十一句を収めたこの遺句集の、三百九十句目が掲句である。とは、は永遠(とわ)。林檎は紅玉、小ぶりでつややかな紅色と甘酸っぱさが、当時は最も親しい果物のひとつであったろう。その結実した生命を掌に包んだ時、滅びようとする肉体の中から、自らをも含む全ての生に対する慈しみがあふれ、それが一筋の静かな涙と共に一句をなした気がしてならない。病と共にある人生を、自然に、淡々と詠んだ数々の句の中に、國弘賢治は確かに生き続けている。『賢治句集』(1991)所収。(今井肖子)


October 15102006

 秋の夜ことりと置きしルームキー

                           高山きく代

ームキーという言葉は、自宅よりもホテルを思い起こさせます。生活スタイルにもよるでしょうが、わたしの場合、自宅の鍵をわざわざルームキーなどと英語で言うことはありません。しかし、この句はどうも、ホテルの部屋という印象がもてません。ホテルの、透明で大きな棒のついている鍵では、置いたときの音は、「ことり」ではすむはずもありません。この鍵はやはり、自宅用の、なんの飾りもついていないもののように思われます。秋の夜、遅くなって、一人住まいの部屋に帰ってきたのでしょうか。冷え始めた季節の空気とともに、この部屋の主は帰宅し、まずは鍵を台所のテーブルに置くのです。それまでだれもいなかった部屋に、久しぶりに人のたてる音がします。「ことり」という音は、響きは小さくとも、音として明確にその意味を主張しています。その日、どんな出来事に翻弄されようとも、鍵をあけ、部屋に入ってからは、その人だけの別の時間が流れ始めます。扉によって外部を締め出してから、その人にとっての確かな「時」がはじまるのです。「ことり」という音は、そのはじまりの、ささやかな宣言のようにも聞こえます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 16102006

 一斉に椅子引く音や秋燕

                           対中いずみ

語は「秋燕」、「燕帰る」の項に分類。すぐ近くに小学校があって、よく脇を通る。ときどき感じることだが、同じように運動場に子供が一人もいなくても、休日とそうでない日との学校の感じは全く違う。あれは、どうしてだろうか。休日の構内には誰もいないという知識があるからかとも思うが、どうもそうでもないようだ。むろんよく耳を澄ませば、登校日の学校からはいろいろな音が聞こえてくるはずだが、いつもそんなに意識して通っているわけじゃない。なんとなく通りかかっただけで、休日の学校には生気がないなと思われるのだ。たとえ見えなくても、そこに人がいるとなれば、なんらかの気が立ち上っているような感じを受けるもののようだ。そう仮定すると、そんな学校の気がいちばん高まるのは、やはり終業時だろう。朝からの勉強に抑圧された子供たちの気持ちが、一挙に開放される瞬間だ。揚句の一斉に椅子を引く音には、子供たちの嬉しい気持ちがこもっている。晴天好日の午後。校庭にはまもなく南に渡っていく燕らが飛び交い、もうすぐ勉強が終わった子供らがぞろぞろと出てくる時間。すなわち、学校の気が最も高まり充実するときを迎えたわけで、その限りにおいてはさながら祝祭のときのようである。だが、その気の高まりはわずかな時の間で、すぐに退いてしまうことを作者は知っている。子供らはそれぞれに散っていき、秋の燕はこれっきりもう姿を見せないかもしれない。最も充実した時空間は、常にこのような衰退の兆しを含んでいる。理屈をこねれば、そういう句だ。気の高まりのなか、一抹の寂しさを覚える人情の機微がよくとらえられている。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)


October 17102006

 小鳥来るはじめて話すことばかり

                           明隅礼子

語「小鳥来る」は、秋に渡ってくる鳥のなかでも鶇(つぐみ)、鶸(ひわ)などの鳥に限定されて使われる。身体の小さな鳥たちが賑やかにさんざめく様子もさることながら、「コトリクル」の愛らしい響きには華やぎがあり、続く「はじめて話すことばかり」の調べにも明るいきらめきを感じる。並ぶ句に「胎の子の四方は闇なり虫の夜」とあることから、掲句もおそらくお腹の子へ語りかけているのだと推察する。というのも「話す」の文字を使ってはいても、どこか人の気配を感じさせない静謐さを漂わせているからだ。とかく秋という季節が持つ背景が、ひとりきりの空気を引き出すからだろうか。小鳥たちが頭を寄せ合う景色をゆるやかにまとい、静かにひとりごちている作者の姿がある。そこから見える風景や、自分のこと、家族のこと、そしてどんなにかあなたをみんなが待っていること。清らかな秋の光りに包まれ、それは歌うようにいつまでも続き、お腹の子が耳にするはじめての子守唄となっていることだろう。精神的な父親の自覚と違い、母親の自覚は常に肉体的なものだが、女性も出産と同時に瞬時に母親になるのではない。自分のなかにもうひとつの命のある不思議さを躊躇なく受け入れたときから、こうして胎児と濃密なふたりきりの時間をじゅうぶん過ごしつつ、母性は茂る葉のように育っていくのだろう。「はらはらと麒麟は青葉食べこぼし」「しやぼん玉はじめ遠くへ行くつもり」なども羨望の句。『星槎』(2006)所収。(土肥あき子)


October 18102006

 三井銀行の扉の秋風を衝いて出し

                           竹下しづの女

行員が詠んだ俳句はたくさんあるわけだろうが、名指しではっきりと銀行名を詠み込んだ大胆な俳句を、私は寡聞にして知らない。のっけから「三井銀行」とは、あっぱれ。いかにもしづの女(じょ)らしい。ちなみに同行は私盟会社として明治九年に創立されている。現・三井住友銀行。人は好むと好まざるとにかかわらず、さまざまな事情を抱えて銀行に出入りするわけだが、「衝いて出し」ときの秋風はさわやかで心地良かったのか、あるいは耐えられないものだったのか。しづの女のよく知られている句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」とか、他の句にある「…ぶつかり来」「…ピアノ弾け」などの強い表現に敢えてこだわって類推すると、憤然と、あるいは昂然と銀行の頑丈な扉を押し開けて外へ出て、秋風に立ち向かって行くような勢いが感じられてならない。いや「扉の秋風」ゆえ、ここでは扉そのものがもはや秋風なのであり、外なる秋風への入口そのものなのだろう。川名大は、しづの女について「姉御肌の人柄で、知性と意力と熱情の溢れた力強い母性の行動力が特色」とコメントしている。杉田久女を含めて、こういう女性も「ホトトギス」に所属していたのだ。川名大『現代俳句・上』(2001)所載。(八木忠栄)


October 19102006

 秋風や酒で殺める腹の虫

                           穴井 太

きぬける風が身にしむ頃となってきた。ビールから熱燗に切り替えた人も多いのではないか。酒好きの人ならひとりでふらりと寄れる居酒屋の一軒ぐらいはあるだろう。掲句からは馴染みの店で黙々と盃を重ねる男の姿が思い浮かぶ。「風動いて虫生ず。虫は八日にして化す」四季折々の風が吹いてその季節の虫を生じるとか。穴井太も山頭火の評論にこの風の字解を引用しており、この句にもその考えは自ずと反映されているだろう。虫が好かない。虫唾が走る。「虫の成語には科学的根拠は乏しく、人間の心の感情を指している。何か心を騒がせ、制御しきれない動きをする。」と穴井は述べる。収まりのつかない腹の虫を生じる秋風は世間の冷たい風の意を同時に含んでいるのかもしれない。四六時中世間の風に吹かれていれば殺めたい腹の虫はいくらでもわいて出てくるだろう。腹の虫を酒で殺め、腹立つ気持ちにけりを付けて家路をたどるか、虫もろとも酔いつぶれて電車のシートに沈むか。そんな男の飲み方に比べ女の場合たいていは友達連れで屈託がない。腹の虫を酒で殺めるというより、酒にもらう元気で虫を外へたたき出しているようではある。『穴井太句集』(1994)所収。(三宅やよい)


October 20102006

 古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

                           伊丹三樹彦

季の句。「仏」の持つ従来の俳句的情緒を逆手にとって、情況に対する危機感を詠じた。海の彼方の国のテロが、瞬時に我々の現実となり得る現代をこの句は描いている。作者は日野草城主宰誌「青玄」に参加、草城没年(1956)に主宰を継承。「青玄」は、2005年に創刊六百号を迎えたあと、本年一月に終刊した。草城の拓いた同時代詩としての俳句の在り方を継いで、作者は現代語による表記を標榜。現代語の多様性がもたらす切れの位置の複雑さを、作り手の側から明確に示すために「分かち書き」を提唱、雑誌全体で実践してきた。「千手」と「遠く」の間の空白の一マスがそれである。同じ無季の句でやはり状況を詠った「屋上に洗濯の妻空母海に」(金子兜太)と並べて置いてみると、日常に隣接している暴力即ち「政治」を描くに当って、まず視覚的な構成から入る兜太作品に比べ、この句は、「仏」の持つ聖性が、むしろ観念としてテロを相対化していることがわかる。いわゆる「人間探求派」と「新興俳句派」という、両者の出自に関わる違いと言えなくもない。観念派と目される「人間探求派」が実は視覚的現実に重きを置き、「新興俳句派」のイメージや言葉が実は従来の俳句的情緒を梃子にしていることがうかがえる。二人とも俳句の新しい可能性を拓くために固定的な手法と闘ってきた現代俳句の闘将である。『樹冠』(1985)所収。(今井 聖)


October 21102006

 激し寄る四方の川水下り簗

                           星野立子

に簗(やな)というと夏季、魚簗とも書く。下り簗は秋季、文字通り川を下ってくる落鮎などを捕るための仕掛けである。今年の名月、関東地方は概ね無月であったが、深夜、雨で水かさの増えた栃木県の那珂川には、鮎三百キログラム(約五千匹?)、鰻百本が落ちたという。那珂川のみならず日本中のあちこちの川で、満月に鮎が次々に落ちていく、と想像すると幻想的である。落鮎の句を探して歳時記を開くと、隣の「下り簗」のところにこの句が。いかにも立子らしいと言われる句、ではない気もして調べると、昭和十一年、利根川での吟行句とわかる。句日記に「(簗は)想像してゐた以上の美事なものだと思ふ。」とあるので、簀(す)を張り渡した本格的なものだったのだろう。初めて目にする簗、川原に相当長い時間立ち続けていたようである。その足に、力強い水音が絶えず響いている。秋の日差しは思いの外強く、簀にぶつかった白い水しぶきに吹き上げられて鮎がはね、小石がはねる。激し寄る、に見える僅かな主観は季題にのみ向けられ、四方(よも)の川水が、一気に簗に落ち込んでいく。蝶に目をとめて一句、釣り人に会い一句、この日の吟行句、書き残されているものは十四句だが、呼吸をするように作句していたことだろう。俳句は自分のために作るもの、ただ作っているときは、本当に楽しい。息抜きにもなったであろう吟行だが、じっと川を観ている立子の凛とした姿が浮かぶ。『虚子編新歳時記』増訂版(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


October 22102006

 冷やかに海を薄めるまで降るか

                           櫂未知子

語は「冷やか」。秋です。秋も終わりのほうの、冬へ、その傾斜を深めてゆく頃と考えてよいでしょう。春から夏へ向かう緩やかな階段を上るような動きとは違って、秋は滝のように、その身を次の季節へ落とし込んでゆきます。「冷やか」とは、じつに的確にその傾斜の鋭さを表した、清冽な季語です。夏の盛りの驟雨、暑さを閉じる雷雨、さらには秋口の暴風雨と、この時期の季節の移ろいに、空はあわただしく種類の異なる雨を提示してゆきます。その提示の最後に来るのが、秋の冷たい雨です。晩秋の雨の冷たさは、染み込むようにして、あたたかさに慣れきった身体を濡らしてゆきます。この句で際立っているのは、「海を薄めるまで」のところです。このような大げさな表現は、ひそやかに物を形容する日本語という言語には、適していないのかもしれません。しかし、この句にあっては、それほどの違和感をもつことなく、わたしたちに入ってくることができます。降る雨は、海の表面に触れる部分では、たしかにその瞬間に海を薄めているのです。それはまるで、海が人のように季節の冷たさを感じているようでもあります。そしてまた、海が濡れてゆくようでも。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 23102006

 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

                           林田紀音夫

季句。難解な作品の多い紀音夫句のなかでは、比較的わかりやすい一句だ。この句が有名になったのは、むろん「鉛筆の遺書」の思いつきで、世間の抱く漠然たる遺書への固定観念をくつがえしてみせたからである。遺書を筆で書くか、せめて万年筆で書くか。世の中ではなんとなくそう思われているようだし、作者もそう思っていたのだが、いざ自分を書く身に置いてみたら、どうもいつまでも残りそうな墨痕淋漓の書き物などと自分の思いとはつり合わない。少しだけ書き残したいことはあるのだけれど、かといってそれは子々孫々にまで伝えたいというほどのことじゃない。加えて、自分のような存在は、死んだらすぐにも忘れて欲しいという気持ちがある。そこで「鉛筆」書き「ならば」という仮定が生まれたというわけだが、いまこれを書いている私の目の前には、先日亡くなった松本哉からの葉書が貼ってある。二十年近くも前のもので、彼の絵に短い文章が添えられた「絵葉書」だ。気に入って貼ってあったのだが、先日葬儀から戻ってしみじみと見てみようとしたところ、絵はかすれ気味ながら残っているのに、文字はすべて消え去っていることに気がついた。毎日漫然と見ていたので、迂闊なことにいつごろ完全に消えたのかは定かではないけれど、その文字はまさに「鉛筆」で書かれていたのは記憶している。林田紀音夫の予測通りに、鉛筆の字は消えてしまうのである。超微細な砂粒と化して、時々刻々とそれらの文字たちはおのれを削り落としていたのだ。そんなわけで鉛筆書きの文字の実際の消滅を前にして、ふっと揚句を思い出し、その発想の奇ならざることを思うと同時に、作句時の作者の一種暗い得意の気分もしのばれたのであった。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(清水哲男)


October 24102006

 腰おろす秋思の幅をあけ合ひて

                           亀田憲壱

の寂しさに誘われる物思いが秋思(しゅうし)であるという。この言葉に硬質の孤独を感じるのは、故郷を恋う杜甫の「万里悲秋」などの漢詩を敷く、ひとりの人間が抱く絶対の孤独や無常を思わせるからだろう。同じような心持ちを表す季語に「春愁(しゅんしゅう)」があるが、こちらは「春のそこはかとない哀愁。ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、半面ふっと悲しみに襲われることがある。」と解説される通り、どちらかというと他人の心と相反する自己を愛する気持ちが芯となり引き出されているようだ。春愁は心のどこかで人を求め、秋思は人を遠ざける。毛皮にも甲羅にも覆われていない人間は、心もまたむきだしで傷つきやすくできているように思えるが、全身を堅い甲羅で覆われている蟹にも脱皮する時期がある。脱皮を繰り返すことによって、身体を成長させ、また怪我した部分を再生させるのだが、この無防備で柔らかな身体の時間、蟹たちはお互いが傷付くことを怖れ、岩陰などにじっと潜んでいるという。掲句の発見である「秋思の幅」が、人間の傷つきやすい心をかばうように、無意識に取り合う距離なのだと思うと、そのにぎりこぶしひとつほどの空間が、とても大切で愛おしいものに見えてくる。『果肉』(2006)所収。(土肥あき子)


October 25102006

 秋風や子無き乳房に緊く着る

                           日野草城

性がどう威張ってみても、また地団駄踏んでみても、彼から欠落しているのが乳房。まあ、筋肉がキリリと緊まった男性の胸も、それはそれで美しい。けれども、両者の美質はおのずと別である。堀口大學は詩で、乳房を「女の肉体の月あかり」「恋人のシャボン玉」と表現した。(セクハラなどと野暮は言うなかれ)掲出句は乳房そのものや、その美を直接詠もうとしているわけではない。ポイントはむしろ「緊(かた)く着る」にある。そのためにこそ乳房が必要なのである。秋風のなかへ外出するのだから、もちろん時季にふさわしいフォーマルな着物であろう。「子無き」と言っても、未婚の娘さんではなく既婚者であろう。まして西洋人のような巨乳ではない。立ち姿が形よく引き緊まって、凛としたエロチシズムが感じられる。品位があって隙がない。乳房だけでなくしっかりと抑えられた心身の緊張感までもが、さわやかな風にのってそっと匂ってくるようでもある。草城には、女性のエロチシズムを素材にした句が多い。しかし、乳房は男性が詠んでも女性が詠むにしても、容易な素材ではない。蛇笏は「大乳房たぷたぷ垂れて…」と健康さを詠み、草城の弟子・信子は「ふところに乳房ある憂さ…」と内面を詠んだ。『花氷』(1927)所収。(八木忠栄)


October 26102006

 女湯もひとりの音の山の秋

                           皆吉爽雨

和二十三年、「日光戦場ヶ原より湯元温泉」と前書きのあるうちの一句。中禅寺湖から戦場ヶ原を抜け、湯元温泉に行くまでの道は見事な紅葉で人気のハイキングコース。爽雨(そうう)もこれを楽しんだあと心地よく疲れた身体をのばして温泉につかったのだろう。今は日光からの直通バスで湯元まで簡単に行けるようだが、昔の旅は徒歩が基本。若山牧水の『みなかみ紀行』にも山道を伝って幾日もかけ、山間の温泉を巡る旅が書かれている。湯元は古くからの温泉地。掲句からは鄙びた温泉の静かな佇まいが伝わってくる。温泉の仕切りを隔てた隣から身体に浴びせかける湯の音や木の湯桶を下に置く音がコーンと響いてくる。「隣も一人。」旅の宿に居合わせ、たまたま自分と同じ刻に湯につかっている女客。顔も知らず、たぶん言葉を交わすこともなく別れてしまうであろう相手の気配へかすかな親しみを感じている様子が「ひとりの音」という表現から伝わってくる。ひそやかなその音は湯殿に一人でいる作者とともに読み手の心にも響き、旅情を誘う。「山の秋」という季語に山間の冷涼な空気と温泉宿を包んでいる美しい紅葉が感じられる。『皆吉爽雨句集』(1968)所収。(三宅やよい)


October 27102006

 天つつぬけに木犀と豚にほふ

                           飯田龍太

が臭いのは豚のせいではなく、糞尿を処理してやらない人間のせいだと気づいたのは、僕が家畜試験場で暮していたから。豚はきれい好きな動物である。生まれたばかりの子豚の可愛さや放牧されている豚の賢さや個性は犬や猫と同じだ。小学生の僕が木切れをもって近づくと豚は一斉に柵の側に駆け寄って僕に背を向ける。木切れで背中を掻いてもらうためだ。「天つつぬけに」匂う対象として木犀と豚を同列に置いたのは、作者が豚の匂いを肯定的に捉えているからだと僕は思う。以前、或る雑誌の企画で、「世界中の子豚に捧げる」という文章を書いたとき、載せる写真を問われて、「僕が子豚を抱いているところを」と注文した。それは面白いかもということになり、雑誌社の方で子豚のいるところを探してもらうと、横浜市青葉区にある「こどもの国」という遊園地の中の動物園に子豚がいることが判明。僕は生まれたばかりの子豚を抱いてにこやかに撮られる自分を想像した。当日動物園に行くと、豚はいるにはいたが一抱えほどもあって、とても子豚とは言えない大きさ。どうしますと心配そうに聞くカメラマンに僕は「やるよ」と応えた。五、六頭が飼われている柵の中に僕は入り、逃げ回る奴等を追い回してようやく一頭を羽交い絞めにしたが、形相が怖かったらしく、しきりにカメラマンが「笑ってください」という。バックドロップのように抱き上げた豚の後足に蹴られながら無理に笑った泣き笑いの顔がその時の雑誌に載っている。このとき豚は確かに臭わなかったが、それは僕が必死だったせいかもしれない。『百戸の谿』(1954)所収。(今井 聖)


October 28102006

 セーターを手に提げ歩く頃が好き

                           副島いみ子

ーターは冬の季題だけれど、この句の季感は晩秋か。秋晴の朝。今はちょうどよいけれど夜は冷えるかも、かといってジャケットを持って歩くのも邪魔だしと、薄手のセーターを手にとり家を出る。駅までの道を歩きながら、小鳥の声を仰ぎ、青空を仰ぎ、きゅっと引き締まった空気を思いきり吸って、ああ、今頃が一番好きだなあ、とつぶやく言葉がそのまま一句となった。うれしい、楽しい、好き、などは、悲しい、寂しい、嫌いよりなお一層、句に使うことが難しい。「楽しい、と言わずに、その気持を表してみましょう」などと言われてしまう。この句は、好き、というストレートな主観語が、セーターという日常的なものに向けられることで、具体的になり共感を呼ぶ。同じページに〈何笑ふ毛絲ぶつけてやろかしら〉というのもある。丸くてやわらかい毛糸玉だからこそ、作者もくすくす笑っており、ほほえましい様子がうかがえる。何れも昭和三十年代、作者も三十代の頃の句。したがってセーターは、軽く肘を曲げ腕にかけているのであり、無造作に掴んだままだったり、間違っても腰に巻いたりはしない。副島(そえじま)いみ子氏近詠。〈まんまるき月仰ぎゐてつまづきぬ〉〈長生きもそこそこでよし捨扇(すておうぎ)〉『笹子句集第一』(1963)所載。(今井肖子)


October 29102006

 軒下といふ冬を待つところかな

                           黛 執

年草、あるいは一年草という名前を見るたびに、日本語というのはなんときれいな言葉かと思います。ひとつひとつの草花を、これは「一年」あれは「多年」と、遠い昔に誰がえり分けたのでしょうか。一年草はその長い一年を、充分輝いた後に、自身を静かに閉じてゆきます。片や多年草は、厳しい冬を前にして、命をながらえる準備を始めます。必要のない箇所を枯らせ、命の核だけを残して、身を丸めてじっとするようになります。この句は、そんな、けなげに生き抜こうとしている植物に、人が手を貸しているところを詠っているのだと思います。少しでも霜の降りない場所へ、雨の降らない場所へ、鉢に入った生命を移動するために、ひとつずつ人が持ち、軒下へ置いて行きます。「軒下」を、「冬を待つところ」と言っているのは、単に雨や霜を防ぐことを指しているだけではなく、寒さを正面から受け止めようという、積極的な意思さえも表しているからなのでしょう。たくさんの鉢を軒下に並べ終わって、空を見上げれば、屋根からはみ出した冬空がまぶしいほどに光っています。立ち尽くせば、軒下という場所が特別に優しく感じられ、人にとってもたしかに、「冬を待つところ」のように感じられてきます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 30102006

 霧を出て白く飯食う村の子ら

                           奥山和子

語は「霧」で秋。「霧の村」と題された連作五句のうちの一句だが、なかに「霧の朝手と足が見えて来る」という句があるので、この村の霧が相当に濃いことが知れる。添えられた短文にも、「川と山に挟まれた村の朝は少々遅い。みっしりと霧が覆っているからだ」とある。そんな濃霧のなかを、子供たちは毎朝登校していく。そして、霧がすっかり晴れたころになると、昼食の時間だ。「白く飯食う」の「白く」とは、無表情に、淡々と、はしゃぐようなこともなく黙々と箸を使っている様子だろう。子供たちの弁当の時間といえば、明るい雰囲気を想起するのが一般的だが、この子らにはそれがない。といって、べつに暗い顔で食べるというわけではなく、一種老成した食べ方とでも言おうか、学校での食事も普通の生活の一コマでしかないというような食べ方なのだ。日頃の大人たちと似た雰囲気で、食事をする。作者がそのように感じるのは、おそらくはこの子らの将来を見ているからだ。多くの子は農業を継ぎ、この村にとどまるのだろう。このときに学校とは、何か霧の晴れたような華やかな未来への入り口ではなく、あくまでも普通の生活の通過点である。霧深い山国の地で生涯をおくることになる子供たちの表情は、確かにこのようであったと、同じような村育ちの私には、一読心を揺さぶられた句であった。「東京新聞」(2006年10月28日付夕刊)所載。(清水哲男)


October 31102006

 しつかりとおままごとにも冬支度

                           辻村麻乃

辞苑によると「ままごと」とは「飯事」と書き、子供が日常の生活全般を真似た遊びとある。ママの真似をするから「ままごと」なのかと思っていたが、遊びとしては江戸時代から貴族の子供は塗り物の道具、庶民の子供は木の葉や紙の道具、と昔から広く楽しまれていたようだ。ままごとで使うものは生活環境によってさまざまである。わたしは公園よりも、実家が持っていた印刷や製本の工場の裏で遊ぶことが多かった。インテル(活字の隙間に詰める薄い板)を使って雑草を刻み、古くなった文選箱(選んだ活字を入れる箱)に盛りつける。つぶれた活字をもらっては、椿の葉に刻印し「こういうものでございます」などと、大人たちに自慢気に配っていたことも思い出す。子供による日常生活の再現は、はたから見ていると驚くべき観察力であることがわかる。母親の口癖や、父親の態度など、はっと我が身を正す機会にもなったりもする。ほらコートを着ないと風邪をひきますよ、さぁおふとんを干しましょう。掲句のかわいらしいお母さんたちは一体どんな冬支度をしていたのだろう。「をかしくてをかしくて風船は無理」「足元に子を絡ませて髪洗ふ」などにも、体当たりで子育てをしている若い母親の姿が浮かぶ。『プールの底』(2006)所収。(土肥あき子)




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