龍虎3差で「最後の決戦」へ。さぞや甲子園はすごい声援でしょうね。見たいなあ。(哲




2006年9月29日の句(前日までの二句を含む)

September 2992006

 月夜の葦が折れとる

                           尾崎放哉

取市立川町一丁目八十三番地に、僕は五歳から十二歳まで七年間住んだ。狭い露地に並んだ長屋の一角が僕の家。その露地を東に五十メートル進んで突き当たると右手、八十番地に放哉の生家があり、そこに「咳をしても一人」の句碑が立っていた。途中に古い醤油の醸造元があり、土壁の大きな醤油蔵があった。いつも露地には醤油の匂いが漂っていた。放哉もこの醤油の匂いを嗅いで育ち、ここから鳥取一中(現鳥取西高)に通った。我が家はその後米子に移り僕は米子の高校に通うことになったが、そこの図書館にも放哉関係の本はあり、すでに俳句を始めていた僕はその奇妙な俳句に驚いた記憶がある。放哉は、当時は地元の一奇人俳人にすぎなかった。自由律俳句は河東碧梧桐、中塚一碧楼、荻原井泉水らが積極的に実践。季語、定型にとらわれない自由な詩型をとることを標榜した。そのため自由律俳句の傾向は当初それぞれの俳人の個性や価値観によって多彩な文体を示したが、放哉以降の自由律俳句は、たとえば山頭火も、放哉の文体と情趣を模倣したかに見える。異論はあろうが。「折れとる」は鳥取方言。「折れとるがな」「折れとるで」などと用いる。破滅、流浪の身として、パスカルの「人間は考える葦である」に照らしての、「折れた」自己に向けるシニカルな目もあったか。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


September 2892006

 秋茄子を二つ食べたるからだかな

                           栗林千津

さが身上の紫紺の秋茄子をいただいたからだがどうだと言うのか。内容だけみるとただごとに近いが、「からだかな」と置かれた強い切れは、食べたからだと食べられた秋茄子のその後を想像させる。何回か読み下してみると、ア音の多い明るい響きときっぱりした断定が消えた二つの秋茄子の輪郭をかえって鮮明に浮かび上がらせるようだ。「(動植物)を写生して親しむのではなく、対象に同化し、ときにそれらに変身してしまう」坪内稔典は句集の解説で千津の俳句について述べている。掲句の場合だと千津のからだが食べたはずの二つの秋茄子になって揺れ出すのかもしれない。彼女にとっての秋茄子は自分のからだと等量の存在なのだろう。同じ作者の句に「地続きに火噴く山ありひきがえる」「極寒期うまの合ひたる鮫とウクレレ」などがある。動植物を人になぞらえたり、対象に距離を置いて描写するのではない。秋茄子や、ひきがえると同じ次元に身を置いて、彼らと親しみ、入れ替わる通路を千津は見出したにちがいない。50歳半ばから俳句を始めた彼女は92歳で没するまで動植物との交流を中心に、日常の時空間から少しずれた俳句を作り続けた。『栗林千津句集』(1992)所収。(三宅やよい)


September 2792006

 十五から酒を呑出てけふの月

                           宝井其角

蕉は弟子の其角の才能を認め、高く評価していた。作風は芭蕉とは対照的で都会風で洒脱である。吉原を題材にした落語のなかでよく引用される句に、其角の「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」がある。当時の色里の栄耀がしのばれるばかりでなく、若年からの其角の蕩児ぶりが「十五から酒・・・」とともにしのばれる。落語と言えば、古今亭志ん生は「十三、四でもう酒ェくらっていた」(『びんぼう自慢』)と語っている。酒屋がそんな年頃の子にも酒を売っていた、まあ、よき明治のご時世。ましてや江戸の其角の時代である。其角ならずとも呑んべえなら誰しも、しみじみ月を見あげながら、あるいは運ばれてくる酒に目を細めながら、ふとわれを振り返ることもあるだろう。「誰に頼まれたわけでもないのに、よくぞ、まあ、このトシまで・・・・」。「けふの月」ときれいにシャレて止めているが、おそらく月は常とはちがったニュアンスの澄みようで見えていたにちがいない。ちょっと淋しげに見えていたかもしれない。しかし、其角は酒豪だったというだけに、くよくよと湿ってはいない酒であり、月であり、句である。この月は、十五のトシから呑みつづけてきた酒を照らし出しているようにも思われる。私などはいずれ、墓には水ではなく酒をたっぷりかけてほしい、と今から家人に頼んでいる始末。其角は四十七歳で没したが、掲出句は三十六歳のときに可吟が編んだ『浮世の北』(1696)に収録された。(八木忠栄)




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