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September 2292006

 秋の暮溲罎泉のこゑをなす

                           石田波郷

罎に自分の尿が出るときの音を聞いて、回復への喜びを感じている。手術後の危険な状態を脱したときの感慨だろう。波郷の療養に材を採った句は、自分の厳しい病状を詠んでも品格があり、生を前向きに希求してゆく姿勢がある。最晩年の句「梅の香や吸ふ前に息は深く吐け」にしても呼吸一回の苦しさ、困難さを詠んでいながら、その状態に「梅の香」を配さずにはいられない。極限の「リアル」を写実的に「写す」ことへの執着が波郷にはあって、しかも、それだけでは終わらない。季語を通して、俳句の品格を「脚色」してゆくのである。梅の香の句はそのバランスが、おそらく意図を超えて季語の方に傾いた。呼吸の苦しさという「リアル」が、梅の香を呼吸するという情緒の方に吸い取られていくのである。それに対し、この句の「リアル」と季語の情緒のバランスは絶妙である。「音」ではなく、「こゑ」とすることで、溲罎というもののイメージを切実な生の営みに明るく繋げていく。そして「秋の暮」。「秋の暮」は下句に対し、一見、絶対の季語ではないかのように思える。下句が季感を伴う状況ではないから。しかし、溲罎の音に耳を澄まし、その温みを思うとき、「秋の暮」が必然の季節的背景のように思えてくる。波郷の脚色の成果である。『惜命』(1950)所収。(今井 聖)


September 2192006

 大阪の夜霧がぬらす道化の鼻

                           石原八束

温が急に下がり空中の水蒸気が冷やされると霧が発生する。今や不夜城となり、昼の熱気がいつまでも去らない都会ではめったにお目にかかれない自然現象だろう。大阪の夜霧が濡らす道化の鼻とは誰の鼻をさしているのか。作者自身の鼻ともいえるし、ピエロの赤い鼻、道頓堀の食いだおれ人形の鼻などを思い描くことができる。たとえ対象が外にあったとしてもこの情景に投影されているのは作者の鋭敏な自意識だろう。大阪を来訪した八束は、時にやんわり、時にはあっけらかんと言葉を受け流す上方の如才ないふるまいに、孤独の思いを深くしたのかもしれない。世間と関わる自分を道化と言わずにはおれない八束の胸塞がる思いがこの言葉に託されているようだ。深い夜霧に身を沈めたいのに、顔の真ん中にでっぱっている鼻は隠しようがない。昼は人目に晒され、夜は霧に濡れるにまかせている道化の鼻は八束にとって羞恥の象徴なのかもしれない。道化という言葉と句の醸し出す雰囲気に太宰や織田作之助といった文学の匂いを感じる。時代は遠く、いたしかたない自分の身を隠したくとも煌々と明るい都会の夜に夜霧は遠のいていく一方なのかもしれない。『秋風琴』(1955)所収。(三宅やよい)


September 2092006

 秋刀魚焼くはや鉄壁の妻の座に

                           五木田告水

日、銀座の「卯波」で友人たちと数人で飲み、今年の初秋刀魚を塩焼きで食べた。大振りでもうしっかり脂がのっていておいしかった。食べながら、いつかのテレビでお元気な頃の真砂女さんが、客が注文した秋刀魚をかいがいしく運んでおられた様子を思い出していた。真砂女の句に「鰤は太り秋刀魚は痩せて年の暮」がある。その時期のスリムな秋刀魚も、それはそれでひきしまって美味である。近年、関東でも食べられるようになった秋刀魚の丸干しのうまさ、これもたまらない。さて、秋刀魚の句にはたいてい火や煙やしたたる脂がついてまわるが、この句のように「鉄壁」が秋刀魚と取り合わせになったのは驚きである。おみごと! しかも「はや」である。「鉄壁」とはいえ、ここではどっしりとした腰太で、今や恐いものなしと相成った妻ではあるまい。いとしくもしおらしいはずの新妻も、たちまちしっかりした妻の座をわがものとしつつある。亭主のハッとした驚きが「はや鉄壁」にこめられている。良くも悪くも女の変わり身の早さ。秋刀魚を焼く妻の姿によって、そのことにハタと気づかされて驚くと同時に、「座」についたことにホッとしている亭主。秋刀魚の焼き具合はまだ今一でも、さぞおいしいことだろう。若さのある気持ちいい句である。さて、「鉄壁」という“守り”がゆるぎない「鉄壁」の“攻撃”に変容するのは、もう少し先のこと? 平井照敏編『新歳時記』(1996・河出書房新社)所載。(八木忠栄)




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