そうか、「天王山」は名古屋にあったのか。いえ、なに、阪神ファンの独り言です。(哲




2006ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692006

 肘に来て耳に来て秋風となる

                           岩岡中正

風は髪に、夏の涼風は頬から首筋へ、正面から吹いてくる風は清々しく心地良い。今年は特に残暑が厳しかったけれど、日中はまだ暑いこともある九月、半袖で外を歩いていると、後ろからすっと風が来る。まず肘をなで、そして耳の後ろを過ぎる時、ひゅっと小さく音を立てるその風は、間違いなく秋風である。秋を告げながら、風は体を追い越してゆき、早々に落ち葉となった木の葉が、乾いた音をたててついてゆく。残暑がもっと厳しい頃、突然吹く新涼の風は、全身を一瞬ひやりと包む。しかし、秋もやや深まってからの風は静かに後ろから。これが冬の木枯しともなればまた、丸めた背中に容赦ない。体の他のどこでもなく、肘から耳と捉えて、まさに秋風となっている。句またがりの、五・五・七のリズムとリフレインも、読み下すと風の動きを感じさせ軽やかである。日々の暮らしの中にいて、見過ごしがちな小さな季節の変化を、焦点をしぼって詠むことで、実感のある一句となっている。俳誌『阿蘇』(2006年9月号)所載。(今井肖子)


September 1592006

 人間の居らぬ絵を選る十三夜

                           北村峰子

間の居ない絵というのはどんな絵だろう。居ないという表現の裏に、本来そこに居ていいはずという言外の意味を感じるから、静物画のイメージではない。これは風景画に思えてくる。人間の居ない風景画。例えば、ジョルジュ・デ・キリコの絵のような静謐な風景。絵の風景をあちら側の世界、作者の居る現実の風景をこちら側の世界とすると、やや欠けた名残の月が照らしている場所はもちろん後者。しかし、現実の月影は同時にあちら側の世界にも差し込んでいるのである。なぜそういう絵を「選る」のか。どういう自分がそうさせるのか。人が歩いていない街路や人の乗っていない汽車。そういう絵を選択して眺めている作者は、自分が一人で入っていきたい風景を選んでいるのかもしれない。誰もいない自分だけの場所を。キリコの風景画に感じるのは、時間、永遠、存在の不安感などのイメージ。この句にもそれらを感じるが、「十三夜」の明るさが抒情性をもたらす。季語が俳句の要件の第一義だとは信じない僕も、こういう場合の季語の効用は認めざるを得ない。俳誌「河」(2006年8月号)所載。(今井 聖)


September 1492006

 胸といふ字に月光のひそみけり

                           仁藤さくら

野弘に「青空を仰いでごらん。/青が争っている。/あのひしめきが/静かさというもの。」(『詩の楽しみ』より抜粋)「静」と題された詩がある。漢字の字形から触発されたイメージをもう一度言葉で結びなおしたとき今まで見えなかった世界が広がる。胸の右側の「匈」。この字には不幸にあった魂が身を離れて荒ぶるのを封じる為「×」印を胸の上に置いた呪術的な意味がこめられているときく。「胸騒ぎ」という言葉が示すように動悸が高まることは不吉の前兆でもある。不安や憂いに波立つ感情を胸に抱えて、闇に引き込まれそうな心細さ。そんな胸のざわめきをじっとこらえているとやがて胸にひそむ月がほのかに光り、波が引くように心が静まってゆく。「雪国に生まれた私にとって、ひかりというものは、仄暗い家の内奥から垣間見る天上的なものでした。それは光の伽藍とも呼ぶべきもので、祈りを胸に抱きながら、ひかりの中にいたように思います。」胸の月光は作者が「あとがき」で語るひかりのようでもある。さくらは二十年の沈黙を経たのち俳句を再開。静謐な輝きを持った句を詠み続けている。「霧を来てまた霧の家にねむるなり」。『光の伽藍』(2006)所収。(三宅やよい)




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