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2006ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692006

 月の水ごくごく飲んで稲を刈る

                           本宮哲郎

打、田植、稲刈――いずれも季語として今も残っているし、さかんに詠まれているけれども、農作業の実態は機械化して今や凄まじいばかりの変貌ぶりである。以前の稲刈は、夫婦あるいは一家総出で(親戚の結いもあって)、みんな田に這いつくばるようにして鎌を握って一株ずつ稲を刈りとった。私も小学生時代から田仕事の手伝いをいろいろさせられたけれど、つらくて正直言ってすっかり農業がいやになってしまった。稲刈は長びけば手もとが辛うじて見える夕刻にまで及ぶ(途中で切りあげるというわけにいかない)。一升瓶か小樽に詰めて持ってきた冷たかった井戸水は、すでに温くなってしまっている。それでも乾いたのどを鳴らしてラッパ飲みする。ペットボトルはもちろん魔法瓶も氷もなかった時代。ごくごく飲んでざくざく刈る。刈りあげて終わりではなく、次にそれらを田圃から運び出し、稲架に架けてしまわなければ家へ引きあげられない。作業の時間がかかって月の出は忌々しいが、乾いたのどを潤す井戸水は、温くとも月が恵んでくれた天の水のようにうれしく感じられただろう。作者の実体験の確かさがこの句には生きている。天地の間にしっかりと身を置いて収穫に汗する人の呼吸が、ズキズキ伝わってくる力動感がある。哲郎は越後の米穀地帯・蒲原平野の燕市在住の大農家で、現在もかくしゃくとして農業に従事されている。掲出句は二十七歳のときの作。同じ句集には他に「稲架(はざ)を組む夫婦夕焼雲に乗り」をはじめ、農や雪を現場から骨太に詠んだ秀句がならぶ。『本宮哲郎句集』(2004・俳人協会)所収。(八木忠栄)


September 0592006

 爽やかに檜の幹を抱き余す

                           伊藤白潮

林浴という言葉が一般的に知られるようになったのは1980年代というから、まだ日の浅い習慣である。少し年配の方からすれば、そんな大層な言葉を使わずとも、裏山や社寺境内で深呼吸をすることが即ち森林浴であったと思われることだろう。とはいえ、いまや「森林浴」は現代人の大好きな癒しのキーワードとなっている。都会の喧噪を離れ、森の小径を散策すれば、木漏れ日は歩くたびに形を変え、まだ半袖の素肌にさまざまな日向のかけらを放り投げる。取り囲む大樹は静かに呼吸し、ありのままの自分を森がたっぷりと包み込んでくれる。自然の健やかさと愛おしさに、思わず木の幹に触れてみるところまでは、今までも多くの俳人が作品として形にしてきたことだろう。しかし、掲句の魅力は「抱き余す」の「余す」に凝縮される。一等好ましい大樹に両腕を回せば、木の胴は思いのほか太い。というより、両腕に抱えられる大きさが意外に小さいことに気づかされる。左右の指先は目に届かない大樹の後ろ側で、あとどのくらい離れているかも分らない。幹に触れている頬に、しっとりと濡れた木肌が匂う。この肌のすぐ向こうには、地中から運ばれた水が走り、それは梢の先、葉のすみずみまで行き渡っているのだ。抱き余すことによって、年輪を重ねた大樹を祝福し、敬う心が伝わってくる。身体のなかは透明の秋の空気に満たされ、抱いているはずの大樹の幹に、今は抱きしめられている心地となる。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(土肥あき子)


September 0492006

 桜紅葉これが最後のパスポート

                           山口紹子

い最近、緊急に必要なことができて、急遽パスポートの申請に行ってきた。本籍地のある中野の区役所で戸籍抄本をとり、立川の旅券申請受付窓口で手続きが終わるまで、その間に写真撮影やなんやらかんやらで、ほぼ一日仕事になってしまった。この流れのなかで、一瞬迷ったのが旅券の有効期限の違いで色の違う申請用紙を選んだときだ。赤が十年で、青が五年である。このときにすっと頭に浮かんだのは、揚句の作者と同じく「これが最後のパスポート」という思いであった。最後なんだから赤にしようかとも思ったけれど、十年後の年齢を考えると現実的ではなさそうだと思い直して、結局は青にした。そんなことがあった直後に読んだ句なので、とても印象深い。作者の年齢は知らないが、ほぼ同年代くらいだろうか。作者が取得したのは「桜紅葉」の季節だったわけだが、この偶然による取り合わせで、句が鮮やかに生きることになった。桜紅葉の季節は早い。他の木々の紅葉にさきがけて、東京辺りでも九月の下旬には色づきはじめる。山桜なら、もっと早い。すなわち作者は、「最後」と思い決めた人生に対する季節感が、いささか他の人よりも早すぎるかもしれないという気持ちがどこかにあることを言っている。だから、この感情を苦笑のうちに収めたいとも思ったろうが、一方で苦笑からはどうしてもはみ出てしまう感情がないとは言えないことも確かなのだ。この句を読んだ途端に、私は未練がましくも赤にしておくべきだったかなと思い、いややはり青でよかったのだと、あらためて自己説得することになったのだった。『LaLaLa』(2006)所収。(清水哲男)




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