今日(9月5日)と明日は所用で遠出します。メール返信は遅れますがご容赦を。(哲




2006ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0592006

 爽やかに檜の幹を抱き余す

                           伊藤白潮

林浴という言葉が一般的に知られるようになったのは1980年代というから、まだ日の浅い習慣である。少し年配の方からすれば、そんな大層な言葉を使わずとも、裏山や社寺境内で深呼吸をすることが即ち森林浴であったと思われることだろう。とはいえ、いまや「森林浴」は現代人の大好きな癒しのキーワードとなっている。都会の喧噪を離れ、森の小径を散策すれば、木漏れ日は歩くたびに形を変え、まだ半袖の素肌にさまざまな日向のかけらを放り投げる。取り囲む大樹は静かに呼吸し、ありのままの自分を森がたっぷりと包み込んでくれる。自然の健やかさと愛おしさに、思わず木の幹に触れてみるところまでは、今までも多くの俳人が作品として形にしてきたことだろう。しかし、掲句の魅力は「抱き余す」の「余す」に凝縮される。一等好ましい大樹に両腕を回せば、木の胴は思いのほか太い。というより、両腕に抱えられる大きさが意外に小さいことに気づかされる。左右の指先は目に届かない大樹の後ろ側で、あとどのくらい離れているかも分らない。幹に触れている頬に、しっとりと濡れた木肌が匂う。この肌のすぐ向こうには、地中から運ばれた水が走り、それは梢の先、葉のすみずみまで行き渡っているのだ。抱き余すことによって、年輪を重ねた大樹を祝福し、敬う心が伝わってくる。身体のなかは透明の秋の空気に満たされ、抱いているはずの大樹の幹に、今は抱きしめられている心地となる。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(土肥あき子)


September 0492006

 桜紅葉これが最後のパスポート

                           山口紹子

い最近、緊急に必要なことができて、急遽パスポートの申請に行ってきた。本籍地のある中野の区役所で戸籍抄本をとり、立川の旅券申請受付窓口で手続きが終わるまで、その間に写真撮影やなんやらかんやらで、ほぼ一日仕事になってしまった。この流れのなかで、一瞬迷ったのが旅券の有効期限の違いで色の違う申請用紙を選んだときだ。赤が十年で、青が五年である。このときにすっと頭に浮かんだのは、揚句の作者と同じく「これが最後のパスポート」という思いであった。最後なんだから赤にしようかとも思ったけれど、十年後の年齢を考えると現実的ではなさそうだと思い直して、結局は青にした。そんなことがあった直後に読んだ句なので、とても印象深い。作者の年齢は知らないが、ほぼ同年代くらいだろうか。作者が取得したのは「桜紅葉」の季節だったわけだが、この偶然による取り合わせで、句が鮮やかに生きることになった。桜紅葉の季節は早い。他の木々の紅葉にさきがけて、東京辺りでも九月の下旬には色づきはじめる。山桜なら、もっと早い。すなわち作者は、「最後」と思い決めた人生に対する季節感が、いささか他の人よりも早すぎるかもしれないという気持ちがどこかにあることを言っている。だから、この感情を苦笑のうちに収めたいとも思ったろうが、一方で苦笑からはどうしてもはみ出てしまう感情がないとは言えないことも確かなのだ。この句を読んだ途端に、私は未練がましくも赤にしておくべきだったかなと思い、いややはり青でよかったのだと、あらためて自己説得することになったのだった。『LaLaLa』(2006)所収。(清水哲男)


September 0392006

 吊革に手首まで入れ秋暑し

                           神蔵 器

というのはなぜか電車に乗ると、坐りたくなる生き物に変わってしまうようです。駅に着くたびに、どこか空き席がでないかと期待する思いは我ながら浅ましく、そんな自分がいやになって、今度は意地でも坐るまいとくだらない決断をしてみたりもするものです。それはともかく、掲句です。吊革に手首まで入れということですから、姿勢よくまっすぐに立っているのではなく、身体はかなり斜めに傾いています。その傾きに沿うようにして、秋の西日が入り込む夕方の情景かと思われます。一日の労働の後の、人それぞれの思いをいだいて乗った車両。句に詠まれた勤め人の一日にも、さまざまなことがあり、上司から叱責のひとつも受けてきたのでしょうか。あるいは電車に乗るまでに一杯引っかけて、酔いのまわっただるい体をつり革にぶら下げているのかもしれません。句にある吊革の握り方は「手首掛け」、普通の握り方は「順手にぎり」と言います。思えば、自分の掌でしっかりと何かを掴むという行為は、一日の内でも、それほどはありません。世の中にしがみつくように、そんなに強くにぎるわけですから、吊革には日々、わたしたちから剥がれたものがくっついてゆきます。生命にさんざん握られて、吊革もかなり疲れているでしょう。秋の日差しを暑く感じているのは、本当は手首を深く入れられた、吊革のほうなのかもしれません。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます