Zouhai_10000Pages、そろりそろりと船出しました。10000ページ達成はいつ?(哲




2006ソスN9ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0392006

 吊革に手首まで入れ秋暑し

                           神蔵 器

というのはなぜか電車に乗ると、坐りたくなる生き物に変わってしまうようです。駅に着くたびに、どこか空き席がでないかと期待する思いは我ながら浅ましく、そんな自分がいやになって、今度は意地でも坐るまいとくだらない決断をしてみたりもするものです。それはともかく、掲句です。吊革に手首まで入れということですから、姿勢よくまっすぐに立っているのではなく、身体はかなり斜めに傾いています。その傾きに沿うようにして、秋の西日が入り込む夕方の情景かと思われます。一日の労働の後の、人それぞれの思いをいだいて乗った車両。句に詠まれた勤め人の一日にも、さまざまなことがあり、上司から叱責のひとつも受けてきたのでしょうか。あるいは電車に乗るまでに一杯引っかけて、酔いのまわっただるい体をつり革にぶら下げているのかもしれません。句にある吊革の握り方は「手首掛け」、普通の握り方は「順手にぎり」と言います。思えば、自分の掌でしっかりと何かを掴むという行為は、一日の内でも、それほどはありません。世の中にしがみつくように、そんなに強くにぎるわけですから、吊革には日々、わたしたちから剥がれたものがくっついてゆきます。生命にさんざん握られて、吊革もかなり疲れているでしょう。秋の日差しを暑く感じているのは、本当は手首を深く入れられた、吊革のほうなのかもしれません。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 0292006

 一粒の露の大きくこぼれたる

                           山本素竹

は一年中結ぶものではあるが秋に著しいので、単に露といえば秋季となる。また「露けし」「露の世」「露の身」などと使い、はかなさや涙にたとえる句も私の周りには多いが、この句のように、「露」そのものを詠んでいながら余韻のある句にひかれる。この作者には〈百万の露に零るる気配なく〉という句もあり、「一粒」と「百万」、かたや「こぼれ」かたや「零るる気配なく」対照的だが、いずれも「露」そのものが詠まれている。葉の上にあるたくさんの露を見つめていると、朝の光の中で自らの重さについと一粒こぼれる。たった一粒だけれど、一粒だからこそ、はっとしてしまう。その露はまた、虫や草木にとっては命の糧でもある。「こぼれたる」とひらがなにすることで、なお動きも見えてくる。それに対して「百万」の句は、「零るる」と漢字にして大きい景を見せている。いかにも広い早朝の野が想像されるが、「ずっと露の景が頭にあって句になっていなかったのが、ある朝家から出て足下の草を見ていたらできた」ときく。授かった一句ということか、羨ましい限り。『百句』(2002)所収。(今井肖子)


September 0192006

 洋上に月あり何の仕掛けもなく

                           三好潤子

いだ夜の海上にぽっかりと月の浮ぶのを見るとき、まさにこんな感じを抱く。空間に存在する「もの」を知のはたらきで関係づけるという「写生構成」を説いた山口誓子の戦後の秘蔵っ子のひとり。その作品は六十年代から七十年代にかけての「天狼」同人欄を席巻した。内容は「見立て」の機智ということになろうが、この独特のリズムと素っ気無いまでの論理性が誓子調本流。魅力もそこにある。仕掛けのある月もあった。ワグナーに入れ揚げた南ドイツ、バイエルンの王様ルートヴィヒ2世は、国の財政を破綻させてまで、凝りに凝った城ノイシュヴァンシュタイン城を造り、城内に人工の月を掛けてその下を馬車で巡ったそうな。三好潤子は大阪生まれで和服の似合う美人。活発な人柄だったが、生涯はさまざまな病気の連続。1985年六十歳、脳腫瘍でこの世を去る。『澪標』(1976)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます