上原一〇〇勝、おめでとう。JFKがJKFとなって、タイガース失速。順番は大切だ。(哲




2006ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682006

 初秋の人みなうしろ姿なる

                           星野高士

秋を過ぎても八月は残暑が厳しく、西瓜、花火、などは盆にまつわる季題とはいえ夏のイメージが強い。しかし子供の頃、八月に入ると夏休みは急に駆け足になって過ぎた。西瓜の青い甘さに、今を消えてゆく花火に、星が流れる夜空に、秋が見えかくれする。そんな秋の初めの頃をいう初秋(はつあき)。ふと目にしたうしろ姿の人々と、それぞれがひく影に秋を感じたのだろう。「人みなうしろ姿」という表現で秋のイメージを、などとは思っていない。よみ下してすっと秋の風が吹き、目が「初秋」という季題に落ち着いてしみじみとする。星野高士氏は星野立子の孫にあたり、今年、句集『無尽蔵』を上梓、掲句はその中の一句である。その句集中の〈月下美人見て来て暗き枕元〉という一句に惹かれ、お目にかかった折、作句時の心境など伺うと、何となくそんな気がしたのよね、と。衒いのない句、言葉はあとから、なのである。『無尽蔵』(2006)所収。(今井肖子)


August 2582006

 一夏の詩稿を浪に棄つべきか

                           山口誓子

分の書いたものがいまだかつて無かった高みに届いていると思い込むときがある。とくに疲れている日の深夜などは危ない。朝起きると作品にもう昨夜感じた輝きは失せている。そういう錯覚はともかく、詩人はときに昂然と自らへの詩神の到来を信じて詩作に没頭し、その結果産み出したものについて、ときに深く絶望する。いわば躁と鬱の両方を創作過程の中で体験するのである。中村草田男の「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」はまさに躁。夏の訪れとともに身体から毒を排出して詩作に没頭し、多産するのだ。悪魔も裸足で退散するような勢いである。そして、やがて、夏の終りとともに自己否定の鬱がやってくる。多産した詩の中の一篇ですら自分にとって価値を感じられるものがない。それらを全部まとめて浪に向って放り投げたくなる。二句並べてみると詩人というものの心の抑揚がよくわかる。『七曜』(1942)所収。(今井 聖)


August 2482006

 爽かや寝顔に笑顔別に在り

                           池内友次郎

書きに「八月二十八日。偶成。」とある。興が湧いて俳句が自然にできたという意味だろう。「爽か(爽やか)」はすがすがしく快い様子。さっぱりした気分が秋の空気の透明感に似つかわしいので秋の季語になっている。むかし乳母車を押して街に出ると、すれちがう人たちが、実に優しげな顔で赤子に微笑みかけるのを不思議に思っていた。幼子の笑顔は親だけではなく、味気ない日常に黙しがちな大人の清涼剤であるらしい。邪気のない笑顔とはまた別に、無防備に体を広げて熟睡する寝顔も可愛らしいもの。昼の暑さとはうって変わって心地よい初秋の夜、父親が子供の寝顔を見ているうちふっと句が出来たのだろう。昼間の笑顔を見ることは出来なかったけど、寝顔だけでも充分。深夜の帰宅に玄関から子供部屋に入り寝顔を確かめてから着替えだす父親も多いだろう。幼子の笑顔と寝顔にどれだけの力を与えられているか子育ての渦中にいるとなかなかわからない。日常から気持ちをすっと離して子供を見つめる視線にもさわやかさを感じる。虚子の次男、音楽家である友次郎は柔らかな感性で明るくモダンな俳句を残した。『調布まで』(1947)所収。(三宅やよい)




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