セミよりも早く起き、秋の虫よりも早く眠る毎日。過度の早寝早起きは不健康かな。(哲




2006ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2582006

 一夏の詩稿を浪に棄つべきか

                           山口誓子

分の書いたものがいまだかつて無かった高みに届いていると思い込むときがある。とくに疲れている日の深夜などは危ない。朝起きると作品にもう昨夜感じた輝きは失せている。そういう錯覚はともかく、詩人はときに昂然と自らへの詩神の到来を信じて詩作に没頭し、その結果産み出したものについて、ときに深く絶望する。いわば躁と鬱の両方を創作過程の中で体験するのである。中村草田男の「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」はまさに躁。夏の訪れとともに身体から毒を排出して詩作に没頭し、多産するのだ。悪魔も裸足で退散するような勢いである。そして、やがて、夏の終りとともに自己否定の鬱がやってくる。多産した詩の中の一篇ですら自分にとって価値を感じられるものがない。それらを全部まとめて浪に向って放り投げたくなる。二句並べてみると詩人というものの心の抑揚がよくわかる。『七曜』(1942)所収。(今井 聖)


August 2482006

 爽かや寝顔に笑顔別に在り

                           池内友次郎

書きに「八月二十八日。偶成。」とある。興が湧いて俳句が自然にできたという意味だろう。「爽か(爽やか)」はすがすがしく快い様子。さっぱりした気分が秋の空気の透明感に似つかわしいので秋の季語になっている。むかし乳母車を押して街に出ると、すれちがう人たちが、実に優しげな顔で赤子に微笑みかけるのを不思議に思っていた。幼子の笑顔は親だけではなく、味気ない日常に黙しがちな大人の清涼剤であるらしい。邪気のない笑顔とはまた別に、無防備に体を広げて熟睡する寝顔も可愛らしいもの。昼の暑さとはうって変わって心地よい初秋の夜、父親が子供の寝顔を見ているうちふっと句が出来たのだろう。昼間の笑顔を見ることは出来なかったけど、寝顔だけでも充分。深夜の帰宅に玄関から子供部屋に入り寝顔を確かめてから着替えだす父親も多いだろう。幼子の笑顔と寝顔にどれだけの力を与えられているか子育ての渦中にいるとなかなかわからない。日常から気持ちをすっと離して子供を見つめる視線にもさわやかさを感じる。虚子の次男、音楽家である友次郎は柔らかな感性で明るくモダンな俳句を残した。『調布まで』(1947)所収。(三宅やよい)


August 2382006

 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

                           西東三鬼

十代の後半に、三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」という句に偶然出会って、私は驚嘆した。脳震盪を起こした。そして西東三鬼という奇妙な名前の俳人が忘れられなくなった。俳句侮るべからず、と認識を新たにさせられた。さっそく角川文庫『西東三鬼句集』を探しはじめ、1年がかりで探し当てたときは、まさに「鬼の首」でもとったような感激だった。定価130円。掲出句は「水枕・・・」の句を冒頭に収めた句集『夜の桃』に収められている。ニヒリスト、エトランジェ、ダンディズムなどという形容がつきまとう三鬼ならではの斬新な風が、この句にも吹いている。同時にたくまざるユーモアがこの句の生命であろう。白系ロシア人で隣に住んでいたというワシコフ氏はいったい何と叫んでいたのか? 肥満体の露人は五十六、七歳で一人暮らし。せつなさと滑稽がないまぜになっている。赤く熟した石榴を、竿でムキになって打ち落としている光景は、作者ならずとも思わず足を止め、寒々として見惚れてしまいそうだ。ここはやはり柿や栗でなく、ペルシャ・インド原産の石榴こそふさわしい。外皮が裂けて赤い種子が怪しく露出している石榴と、赤い口をゆがめて叫ぶ露人の取り合わせ。尋常ではない。『夜の桃』(1950)所収。(八木忠栄)




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