昨日の甲子園はすごい試合の連続。我が阪神は、まったくすごくない試合でした。(哲




2006ソスN8ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1882006

 運慶とのつぴきならぬ昼寝かな

                           平山雄一

倉時代を代表する仏師運慶は、東大寺南大門の金剛力士像や興福寺の無著・世親菩薩立像などが代表作。運慶作の仏像を観た興奮が作者の中に残っていて、その昂ぶりを抱え込んだまま昼寝の刻を過ごしている。実際に眠ったのか、悶々としたのか、はたまた夢に運慶が現れたのか。とにかく仏像という作品を通して運慶という芸術家の魂が現代に生きる作者の魂を揺さぶったのだ。それが「のつぴきならぬ」。八百年余の時を超えて二つの魂が出会う。そして、この句に漲る青春性は、なんと言っても「昼寝」にある。明るい光の中で畳に仰臥する姿は、大らかでいて、どこか捨身無頼の生き方を思わせる。作者の中にそういうことに対する憧憬や予感があったのかもしれない。『天の扉』(2002)所収。(今井 聖)


August 1782006

 天の川由々しきことに臍がある

                           永末恵子

気の冴えた田舎の暗闇に初めて天の川を見たのは、三十近くになってからだった。夜空の中央に白っぽく明るんでいる帯が天の川だと教えられたときには「MilkyWay」の命名の妙に感じ入ったものだった。が、同時に頭上の銀河は想像していたきらきらしさにはほど遠く、その落差にちょっとがっかりもした。永末の句は言葉の展開に、ふっと虚をつかれるような意外性がある。俳句とともに連句もこなす作者は、付けと転じの呼吸から俳句の上五から中七座五へと綱渡る感覚を磨いたのだろうか。予想のつかない言葉の転がりに読み手がどのぐらい丁寧に付き合ってくれるか定かではないが、それもお好みのままに、と言った淡白さが持ち味に思える。中天にかかる「天の川」を思う気持ちは「由々しきことに」と普段使わぬ古風な言葉に振りかぶられ、身構える。そこに座五で「臍がある」と落とされると、なぁんだ、と気が抜ける同時に臍があること自体が由々しきことのような不思議な感触が残る。頭上に流れる壮大な天の川から身体の真ん中にある臍へ。その引き付け方に滑稽な現実味が感じられる。『借景』(1999)所収。(三宅やよい)


August 1682006

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

石には名句、好きな句がたくさんある。全部でおよそ2,600句あるという。大正六年に『漱石俳句集』が編まれ、その後『漱石全集』にもちろん収められている。初めて掲出句を読んだとき、私はギャッと叫んだ。小説家の繊細な観察眼、好奇心、ユーモア・・・・この視線や取り合わせはタダモノではない。文豪の面目躍如。読経でポクポク叩かれる木魚の口から、あわててフラーリ、プイーととび出す間抜けな昼の蚊に妙な愛着を感じて、叫んだあとで思わずほくそえんでしまった。先日、親戚の法要で木魚ポクポクを前に、この句を想起して思わず表情がゆるみかけた。あわてて神妙に衿を正したものだ。さて、ところがである。この句は明治二十八年の作だが、坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書)によれば、すでに江戸時代の東柳という人の句に「たゝかれて蚊を吐(はく)昼の木魚哉」があるという! 稔典氏は「とてもよく似た句」であり、「漱石さんの句として認められるのかどうか」と惑い、漱石の独創が原句をしのいでいる必要があると結論している。その場で、漱石には「東柳の句を覚えていたのだろうなあ」と微妙な発言をさせている。私は「昼の蚊」を主体にした漱石句のユーモラスな姿のほうが「原句をしのいでいる」と思うのだが。『漱石俳句集』(1917)所収。(八木忠栄)




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