中日先勝。むむむ、今日の試合に一縷の望みをつなぐっきゃないな‥‥。(哲)




2006ソスN8ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1282006

 踊り込む桟敷の果の見えぬまま

                           稲畑汀子

題は「踊」で秋。旧暦の七月、旧盆の盆踊のこと。この句の場合は阿波踊、詠まれたのはちょうど一年前である。踊り込んでいるのは作者自身で、七回目の阿波踊であったという。昨年の今頃私も阿波踊の渦の中にいた。「連」と呼ばれる集団が踊る、あちこちに輪を作り踊る、裏通りで一筋の笛に踊る、皆明るい。出を待ちながら見上げる桟敷は高くどこまでも続いて見えるが、一歩を踏み出せばあとはただ踊るのみ、体の芯に不思議な灯がともる。今日から始まる阿波踊、今年も盆の月が濡れていただろうか。俳誌「ホトトギス」(2006年1月号)所載。(今井肖子)


August 1182006

 昆虫のねむり死顔はかくありたし

                           加藤楸邨

虫は「こんちゅう」と読み、死顔は「しにがお」と読む。昆虫は、季題「虫」とは本意から言っても、ここで用いられた意味から言ってもまったく異なる。これはあくまで、昆虫一般であり、その意味では、この句は無季の句である。この句、1946年(昭和二十一年)の作。終戦直後の混乱が世を覆う中、この年、楸邨自身は中村草田男から公開質問状「楸邨氏への手紙」を示され戦中の俳人としての動向について戦争責任を問われる。当時の楸邨の暗い心の風景がこの句に映し出されている。しかし、そういう「知識」を捨ててこの一句にあたるとき、あらゆる昆虫のさまざまな顔がしずかに浮び上がり、作者の「かくありたし」の願いが切実に読者に迫る。「もの」のリアルから発するということが何よりも大切で、その実感を生かすためには、季題もリズムも定型も独自のかたちに変えることを辞さないという楸邨の優先順位が見えてくるのである。句集『野哭』(1948)所収。(今井 聖)


August 1082006

 雨風の濡れては乾き猫ぢやらし

                           三橋鷹女

語は猫ぢやらし(猫じゃらし)で秋。緑の花穂が小犬のしっぽに似ているので狗尾草(えのころぐさ)の呼び名もある。草花の知識の乏しい私でも言い当てることの出来る数少ない草だ。何気なく茂っているので、ことさら季節を意識せずにいたが、八月から十月頃が花期らしい。「雨風に」ではなく「雨風の」と表現したところに、雨風が勝手にやって来て猫じゃらしをずぶ濡れにしては乾き、またやって来ては乾きと、いたぶられることが他人事みたいな余裕が感じられる。道端にのほほんと穂を揺らすこの草にはなるほどそんな風情がある。自我を中心にした個性的な句を数々ものにした鷹女五十歳の作。戦中戦後の暗い時代を経てようやく来し方を振り返る余裕も出来たのだろう。老いへ向う人生の節目を迎えた鷹女が気負いなく猫じゃらしを詠んだことで、この草の持つ飄々としたたくましさがさらりと描き出されたように思う。『白骨』(1952)所収。(三宅やよい)




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