いつになったらジャイアンツは勝てるのであろうか。他人事ながら(!!)気になってきた。




2006ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762006

 戦争も好きと一声かたつむり

                           宇多喜代子

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。「えっ」と、作者は耳を疑った。でも、かたつむりははっきりと「一声」言ったのだ。「戦争も好き」と……。見かけはおっとりと平和主義者のような雰囲気なのに、選りに選って「戦争」が好きだとは。読者も少なからぬショックを受けてしまう。むろんこれは作者が言わしめた台詞なのではあるけれど、その中身の意外性が、かえって最後にはさもありなんと読者を納得させることになる。敷衍すれば、これは人間にも当てはまることなのであって、突然その人のイメージとは大きくかけ離れたことを言われると、一瞬めまいを感じたりするが、結局はその人の真実のありどころを示されたのだと納得することになる。あらためて、まじまじとその人の顔を見返すことになる。そのあたりの人心の機微をよく知る作者ならではの、大人向きの句と言えるだろう。掲句を読んで、川崎洋の短い詩「にょうぼうが いった」を思い出した。「あさ/にょうぼうが ねどこで/うわごとにしては はっきり/きちがい/といった/それだけ/ひとこと//めざめる すんぜん/だから こそ/まっすぐ/あ おれのことだ/とわかった//にょうぼうは/きがふれては いない」。句のかたつむりとは違い、こちらは奥さんの「うわごと」である。でも詩人が書いているように、うわごとだからこそ、そこに奥さんの本音があるのだと納得できたのだ。しかし考えてみると、本当は寝言か寝言じゃないかというようなこととは関係がなく、両者に共通しているのは「まさかの一言」なのであって、私たちはみな、そんな「まさか」には苦もなく説得されてしまう「弱点」があるのではなかろうか。あるとき谷川俊太郎さんが「奥さん、ホントにきちがいって言ったの」と川崎さんに聞いたら、「ホントなんだよ」と、川崎さんは真顔で答えてたっけ。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2662006

 酒ならばたしなむと言へ鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)」で夏。「鱧」は、梅雨の水を飲んで美味くなると言われる。関西名物、そろそろ旬である。先日、大学時代からの友人と呑んだ。関西生まれ、関西育ちの男だ。店の品書きに大きく「ハモ」と書いてあったので、「夏だなあ、食おうか」と言ったら、彼は「やめとこう」と言った。「どうせ冷凍だ。新鮮じゃない。本場の鱧とは比較にならん」と、ニベもない。「それもそうだな」と、ちょっと未練は残ったけれど、私もやめとくことにした。掲句の作者は徳島在住なので、鱧の鮮度など気にする必要はない。揚げた「鱧の皮」を肴に、一杯やっている図だろう。いかにも美味そうだ。思わず、酒もすすみがちになるはずだ。が、作者はほろ酔い気分のなかでも、あまり調子に乗って飲み過ぎないようにせねばと、自制の心を働かせている。これは実は多くの酒飲みに共通の心の動きなのだが、作者をして掲句を作らしめたのには、次のような事情もあったからだった。自解に曰く。「大酒呑みであった父は、ボクが小学三年の時に急死した。酒が原因だという。『たしなむ』には、とり乱さない、つつしむ、我慢するという意があるようだ。父と呑まなくてよかった。息子の方が照れる」。したがって、誰かに「お酒は」と聞かれたら、「銚子一本ならと答えたい」と書いている。そう言えば、私の父は「たしなむ」どころか、婚礼の席などのヤムを得ないときは除いて、普段は一滴も口にしない。やはり父親が大酒飲みで、幼い頃から酒飲みの狂態や醜態を見て育つうちに、自然に酒を拒否するようになったらしいのだ。そして、その息子たる私は、酒が常備されていない家庭に育ったせいか、若い頃には酒に対する好奇心も人一倍あって、逆に人並み以上に呑むようになってしまった。もっとも、いまはビールしか呑めないが……。先の友人との夜も、すぐに「たしなむ」度合いは越えてしまい、閉店時間に追い出されるまで座り込んでいたのであった。『汀史虚實』(2006)所収。(清水哲男)


June 2562006

 素麺を 食ぶる役者の 顔憤怒

                           石川鐵男

語は「素麺(そうめん)」で夏。一読、噴き出してしまった。いや、笑ったりしたら、句の「役者」さんには大いに失礼ですよ。でも、句が笑わせてくれるように作られているのだから仕方がない。作者は、ビジネス・ソフト「勘定奉行」などのTV-CMを手がけてきた人である。さきごろ「百鳥叢書」の一冊として出版された『ぼくの細ぃ道』(副題には「俳句日記」とあり、表紙の惹句には「カミさんに逃げられた男の台所」とある)に載っていた句だ。だから、これは作者の仕事の流れのなかでの実景だろう。何があったのかは知らないが、とにかく役者は怒っているのである。しかし、いまは食事時なのである。出された素麺に、烈火のごとき表情のまま、すぐに手を出して食べはじめた。というのが物の順序であるはずだが、作者はこの順序をひっくり返して逆に詠んでいる。まずは素麺を食べている役者を少し距離をおいて詠み、その顔をさながらカメラで急にアップしたかのように見てみたら、そこにあったのは「憤怒」の形相であった。つまり、この句は最初に役者が怒っていることを隠しているから面白いのだ。さすがはCM作りのベテランらしい発想である。それにしても、憤怒の感情を抱きながらも、なお食うべきときにはとりあえず食っておくというのは、プロの役者の根性ヤクジョでもあり、どこか哀しい職業的な習性でもある。私も二十年ばかりラジオ界にいたので、こうした役者の振る舞いはよくわかる。役者やタレントは、結局のところ身体が資本だ。彼らはそのことをよく知っているので、出された食事は、どんな精神状態であろうとも、また美味かろうがまずかろうがおかまい無しに、見事に食べてしまう。不愉快な気分だから何となく食べないなどと言う人間は、まだまだこの世界では素人なのだ。そして放送局や舞台の楽屋などで、日常的に彼らが何を食べているのか。それを知ったら、たいていのファンはきっと幻滅するにちがいない。(清水哲男)




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