何事にもレベルがある。サッカー然り、梅雨然り。今年の梅雨はレベルも高く根性もある。




20060624句(前日までの二句を含む)

June 2462006

 一本のバナナと昭和生まれかな

                           北迫正男

語は「バナナ」で夏。この句の感傷的感慨がわかるのは、「昭和生まれ」といっても、戦前の昭和に生まれた人たちだろう。私も含めて、その世代が子どもだったころの「バナナ」に執した思いには熱いものがあった。当時のバナナは高価であり、したがって今のようにそこらへんで気楽に房ごと買えるような果物ではなかった。リンゴなどもそうだったが、病気になったときとか、何か家で良いことがあったときとか、そういうときでもないと口に入らなかったのだ。だから、当時の人気漫画であった島田啓三『冒険ダン吉』のダン吉少年が、南洋の島でバナナにぱくつく様子が、如何にうらやましく目に沁みたことか。そして敗戦後ともなれば、昨日も書いたように、バナナどころの話ではない食糧難時代に突入する。そんなわけで、戦前の昭和生まれにとって、まさにバナナは魅惑の食べ物だったと言えよう。するすると皮を剥くと、ちょうどかぶりつきやすい太さの黄色い果肉があらわれて、一口噛めばえも言われぬ香りと甘さが口中に広がるときの至福感。そんなバナナを私が戦後再び口にできたのは、十代も終わり頃ではなかったろうか。そしていつしか、気がついてみたらバナナは巷に溢れていた。果物屋や八百屋だけではなく、そこらのスーパーマーケットでも、昔に比べれば「超」がつくほどの安値で売られている。だが、いくら安価になっても、いつまで経っても、そうした世代がバナナを前にすると、昔の憧れの気持ちがひとりでによみがえってきてしまう。句の作者は、いまちょうどそんな気分なのだ。すっかり昭和の子に戻って、「一本のバナナ」をしばし見つめているのである。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2362006

 蛍より麺麭を呉れろと泣く子かな

                           渡辺白泉

語は「蛍」で夏。敗戦直後の句だ。掲句から誰もが思い出すのは、一茶の「名月を取てくれろとなく子哉」だろう。むろん、作者はこの句を意識して作句している。とかく子どもは聞き分けがなく、無理を言って親や大人を困らせるものだ。それでも一茶の場合は苦笑していればそれですむのだが、作者にとっては苦笑どころではない。食糧難の時代、むろん親も飢えていたから、子供が空腹に耐えかねて泣く気持ちは、痛いほどにわかったからだ。こんなとき、いかに蛍の灯が美しかろうと、そんなものは腹の足しになんぞなりはしない。それよりも、子が泣いて要求するように、いま必要なのは一片の麺麭(パン)なのだ。しかし、その麺麭は「名月」と同じくらいに遠く、手の届かないところにしかない。真に泣きたいのは、親のほうである。パロディ句といえば、元句よりもおかしみを出したりするのが普通だが、この句は反対だ。まことにもって、哀しくも切ないパロディ句である。あの時代に「麺麭を呉れろ」と泣いて親を困らせた子が、実は私たちの世代だった。腹の皮と背中のそれとがくっつきそうになるほど飢えていた子らは、その後なんとか生きのびて大人になり、我が子には決してあのときのようなひもじい思いをさせまいと、懸命に働いたのだった。そして、気がついてみたら「飽食の時代」とやらを生み出していて、今度は麺麭の「捨て場所」づくりに追われることにもなってしまった。なんという歴史の皮肉だろうか。そしてさらに、かつて麺麭を欲しがって泣いた子らの高齢化につれ、現在の公権力が冷たくあたりはじめたのは周知の通りだ。いったい、私たちが何をしたというのか。私たちに罪があるとすれば、それはどんな罪なのか。『渡邊白泉全句集』(2005)所収。(清水哲男)


June 2262006

 さるすべり辞令束なす半生よ

                           五味 靖

語は「さるすべり(百日紅)」で夏。我が家の窓から見える「さるすべり」はまだ花をつけていないが、そろそろ咲きはじめた地方もあるだろう。この花は、なにしろ花期が長い。秋風が立ちそめても、まだ咲いている。その長い花期の時間が、作者の「半生」のそれに重ね合わされているのだろう。どこか遠くを見るような目で花を見上げながら、作者はぼんやりと来し方を振り返っている。そして、思えば「辞令束なす半生」だったと……。そこには良く今日まで無事に勤め上げてきたものだという感慨と、しかしその間に失ってきたもののことも思われているようで、句にはうっすらとした哀感が漂っている。暑さも暑し。だが、真夏の昼間にも、人は物を想うのである。私はサラリーマン生活が五年ほどと短かったので、むろん束なす辞令とは無縁で来た。でも、その間に三度の入退社があり人事異動もあったので、五年にしては辞令の数は多かったのかもしれない。で、最も役職の高い辞令をもらったのが二十八歳のときだったと思う。辞令には「課長代理待遇」に任ずると書いてあった。ぺーぺーの二十代にしては、けっこうな出世である。と、客観的にはそう思われるだろうが、しかし、話は最後まで聞いてみないとわからない。そんな辞令を会社が交付したのは、単なる給与調整のためだったからだ。その会社に私は途中入社したので、同年代の同僚に比べてかなりの安月給。その辺を横並びに、つまり私の給料を少し上げるために、会社は苦肉の策で「課長代理待遇」なる架空に近いポストをひねり出し、それをもって給料アップの根拠としたのだった。そんな辞令をもらっても、だから依然としてぺーぺーであることに変わりはなかったのである。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)




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