住民税の老年者控除全廃。これはもう公権力による老人虐待だ。血も涙もないのか。




2006ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1962006

 おくられし俳誌のうへに麦こがし

                           百合山羽公

語は「麦こがし」で夏。最近はあまり見かけなくなったが、新麦を炒って粉にしたものだ。関西、京阪地方では「はったい」と言う。砂糖を混ぜて粉をそのままで食べたり、水や茶にといて食べたりする。句の作者は、どちらの食べ方をしているのだろうか。ちょっと迷った。「俳誌」の上に直接粉を盛ったとも考えられるが、飛び散ってしまうおそれがあるので、この解釈には無理がありそうだ。おそらくは水か茶でといたものを書斎の机まで持ってきたのだが、コップ敷きを忘れたので、その辺にあった俳誌の上に置いたと言うのだろう。いずれにしても、この「おくられし俳誌」は、作者にとっては大事なものじゃない。送り主には失礼ながら、パラパラッと見て、即刻処分さるべき運命にある雑誌だ。薄情なようだが、これは仕方がないのである。作者ほどに名前のあった俳人のところには、全国から数えきれないほどの俳誌がおくられてきたはずで、それをすべて保存するなどはとてもできないからだ。そうしなければ、やがて寝る場所もなくなってしまう。ちらっと申し訳ないとは思いつつも、そんな俳誌の上に「麦こがし」を置いた作者の溜め息が聞こえてきそうな句だ。掲句から、ある詩人が書いていたエピソードを思い出した。若いころ、友人と出していた同人誌を尊敬する詩人に送り、できれば会っていただけないかという手紙を同封した。そのうちに返事が来て、一度遊びに来なさいということになった。で、友人と一緒におそるおそる訪問したところ、通された書斎で彼らが見た物は……、憧れの先生が土瓶敷きがわりにしていた自分たちの同人誌であった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1862006

 南瓜咲く室戸の雨は湯のごとし

                           大峯あきら

語は「南瓜(かぼちゃ)の花」で夏。「室戸(むろと)」は、高知県の室戸だ。残念ながら行ったことはないけれど、戦前から二度も(1934・1961)気象史上に残る超大型台風に見舞われている土地なので、地名だけは昔からよく知っている。地形から見ても、いかにも風や雨の激しそうなところだ。その室戸に「南瓜」の花が咲き、その黄色い花々を叩くようにして、雨が降っている。なんといっても、その雨が「湯のごとし」という形容が素晴らしい。さながら湯を浴びせかけるように、降っている南国の雨。雨の跳ねる様子が、まるで立ちのぼる湯煙のように見えているのだろう。そして、こう言ってはナンだけれど、南瓜の花は決してきれいな花ではない。多く地面に蔓を這わせて栽培するので、咲きはじめるや、たちまち土埃などで汚れてしまう。そうした環境からくる汚れもあるし、花自体が大きくてふにゃふにゃしているので、きりりんしゃんと自己主張する美しさにも欠けている。一言で言うならば、最初から最後まで「べちゃあっ」とした印象は拭えない。そんな花に湯のような雨がかかるのだから、これはもう汚れが洗い落とされるどころか、無理にも地面に押しつけられて、泥水のなかへと浸されてゆく。実際に見ている作者は、外気の蒸し暑さに加えてのこの情景には、なおさらに暑苦しさを覚えさせられたのではあるまいか。南瓜の花の特性をよくとらえて、南国に特有の夏の雨の雰囲気を見事に描き出した佳句と言えよう。青柳志解樹編著『俳句の花・下巻』(1997)所収。(清水哲男)


June 1762006

 朝涼の抜いて手に揉む躾糸

                           廣瀬町子

語は「朝涼(あさすず)」で夏、「涼し」に分類。まだ梅雨の最中だから、この句を載せるには季節的に少し早いのだが、一足先に梅雨明けの気分を味わうのも一興だ。夏の朝の涼しさは、気持ちが良いものだ。ましてや作者のように、仕立て下ろしの着物を着る朝ともなれば、気分も一層しゃっきりとすることだろう。同様に、読者の心も涼やかにしゃきっとする。「躾糸(しつけいと)」とはまた美しい漢字を使った言葉だが、最近は和服を着る人が少なくなってきたせいで、もはや懐かしいような言葉になってしまった。簡単に言えば、仕立て上がった着物が手元に来たときに、袖の振りなどが型くずれを起こさないように付いているのが「躾糸」である。もちろん着るときには取ってしまうわけで、作者は取り終わったその細い糸を処分すべく、手で揉んで小さく丸めているところだ。ただ、「処分すべく」と言うと、少々散文的かな。それには違いないのだけれど、この手で揉む仕草は、着物を着るときの仕上げの儀式のようなものだと言ったほうがよさそうだ。昔は、よく着物を着た祖母など、そんなふうにしている女性の姿を見かけたものだった。見かけたと言えば、たまにこの躾糸の一部を取り忘れて着ている人もいて、何かの会合の片隅などで、気がついた人が取ってあげている光景にも何度かお目にかかった。躾糸のなかにはわざと取らないで着る留袖や喪服などの装飾用のものもあって、着物を着慣れない人には判別が難しいだろう。うっかり指摘して間違ったら失礼なので、私などは黙って見ぬふりをすることにしている。三十代のころ、ひょんなきっかけから、仕事で『和装小事典』なる本をゴースト・ライターとして書いたことがあって、こうした和装への関心はそのときに芽生え、いまでもつづいている。『山明り』(2006)所収。(清水哲男)




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