定例の余白句会。兼題は「風鈴」「鯵」「六」と夏向きだ。起きてからゆっくり詠むとするか。




2006ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1762006

 朝涼の抜いて手に揉む躾糸

                           廣瀬町子

語は「朝涼(あさすず)」で夏、「涼し」に分類。まだ梅雨の最中だから、この句を載せるには季節的に少し早いのだが、一足先に梅雨明けの気分を味わうのも一興だ。夏の朝の涼しさは、気持ちが良いものだ。ましてや作者のように、仕立て下ろしの着物を着る朝ともなれば、気分も一層しゃっきりとすることだろう。同様に、読者の心も涼やかにしゃきっとする。「躾糸(しつけいと)」とはまた美しい漢字を使った言葉だが、最近は和服を着る人が少なくなってきたせいで、もはや懐かしいような言葉になってしまった。簡単に言えば、仕立て上がった着物が手元に来たときに、袖の振りなどが型くずれを起こさないように付いているのが「躾糸」である。もちろん着るときには取ってしまうわけで、作者は取り終わったその細い糸を処分すべく、手で揉んで小さく丸めているところだ。ただ、「処分すべく」と言うと、少々散文的かな。それには違いないのだけれど、この手で揉む仕草は、着物を着るときの仕上げの儀式のようなものだと言ったほうがよさそうだ。昔は、よく着物を着た祖母など、そんなふうにしている女性の姿を見かけたものだった。見かけたと言えば、たまにこの躾糸の一部を取り忘れて着ている人もいて、何かの会合の片隅などで、気がついた人が取ってあげている光景にも何度かお目にかかった。躾糸のなかにはわざと取らないで着る留袖や喪服などの装飾用のものもあって、着物を着慣れない人には判別が難しいだろう。うっかり指摘して間違ったら失礼なので、私などは黙って見ぬふりをすることにしている。三十代のころ、ひょんなきっかけから、仕事で『和装小事典』なる本をゴースト・ライターとして書いたことがあって、こうした和装への関心はそのときに芽生え、いまでもつづいている。『山明り』(2006)所収。(清水哲男)


June 1662006

 坂がかり夕鰺売りの後に蹤く

                           能村登四郎

語は「夕鰺(ゆうあじ)」で夏、「鯵」に分類。海釣りが好きで、食べる魚では「鯵」が好きだった詩人の川崎洋さんが、最後の著書となった『魚の名前』(いそっぷ社)で、次のように書いている。「朝飯はご飯、おみおつけ、梅干し、納豆がゆるぎない定番で、ほかにアジの干物が食卓に並ぶ率が七割くらいです。晩酌の肴は刺身が主で、季節によりアジ刺を所望します。アジサシと言っても海中に急降下してアジを刺す鳥のアジサシではありません。夕餉のときはうちのネコが椅子の横下に座り、刺身をねだりますが、アジ刺のときは、目の色が変わります。江戸時代からアジはカツオについで夏の食卓を飾る魚でした。とくに『夕鯵』と称して夏の夕方に売りに来るアジは新鮮なものでした」。川崎さんほどではないが、私にもアジは好物だ。いかにも「夏は来ぬ」の情趣がある。掲句は、まさに「夏は来ぬ」の情景を詠んでいて好ましい。たまたま坂道にかかるところで、「夕鰺売り」の後に「蹤(つ)く」かたちになった。それだけしか書かれてはいないが、句から汲み取れるのは、海からさほど遠くない住宅街の夕方の雰囲気だ。夏の夕暮れだから、まだ明るい。そろそろ夕飯の支度時で、どこからか豆腐屋のラッパの音も聞こえてきそうだ。坂をのぼりながら、作者は今日一日の仕事の疲れが癒されてゆくのを覚えている。ある夏の日の夕暮れの平和なひとときを、さりげなくスケッチしてみせた腕前はさすがである。『合本俳句歳時記・第三版』(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


June 1562006

 憂き人を突つつきてゐる鹿の子かな

                           藤田湘子

語は「鹿の子(かのこ・しかのこ)」で夏。鹿は、四月中旬から六月中旬に子を産む。親鹿のあとについて、甘えるように歩いている子鹿は可愛らしい。「憂き人」とは、他ならぬ作者のことだろう。鬱々とした心には、寄ってくる可愛い子鹿も邪魔っけに思えるばかりだが、そんな人間の心理などにはおかまいなく、ふざけて何度も突っつきにくる。そぶりで「あっちに行け」とやってみても、なおも子鹿は突っつくことを止めないのだ。そんな子鹿の無垢なふるまいには、とうてい勝てっこない。すっかり持て余しているうちに、ふっとどこからか可笑しさが込み上げてきた。といって鬱の心が晴れたわけではないのだけれど、いま自分の置かれている状態を、客観的に見るゆとりくらいは生まれたということか。自分のことを「憂き人」と少し突き放して詠んでいるのは、そんな理由によるのだと思う。鹿の子に限らず、人間の子でも、まだ顔色をうかがうことを知らない年齢だと、よく同じようなふるまいをする。無垢は無敵だからして、始末に困る。中学生のとき、三歳の女の子があまりに悪ふざけを仕掛けてくるので本気で喧嘩をしてしまい、大いに反省したことがある。以後は、そのような事態になりかかると、三十六計を決め込むことにしているが、「憂き人」にはそうした身軽さはないであろうから、いささか腹立たしく思いながらも、ただぼんやりと突っ立っているしかないのであろう。そんな人間と無垢な鹿の子との様子を、少し離れた場所からとらえてみたら、ちょっと面白い光景が見えてきたというわけだ。遺句集『てんてん』(2006)所収。(清水哲男)




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