「ドイツまで行った気分でビール+ソーセージ」って、なんか侘しくなる便乗商法だなあ。




2006ソスN6ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1362006

 ナイターの外くらがりを壜積む音

                           町山直由

語は「ナイター」で夏。大勢の人が楽しむ場所には、必ず裏方がいる。あまり人目につかないところで、働いている人がいる。掲句も、そんな場所で働く人のいる情景を描いたものだ。頭上には煌々たるナイターの光があるので、外の「くらがり」は余計に暗く感じられる。そのくらがりにいる人は見えないが、壜を積む音だけが聞こえてくる。球場のレストランなどから出た空き瓶の回収だろうか。場内のにぎわいとは対照的に、つづけられている地味な作業の様子を、壜を積む音のみで伝えているところが秀逸だ。作者はただそのことだけを客観的に書いているのだが、読者には孤独に壜を積む人の心の内をのぞきこんだような後味が残る。同じように球場のくらがりを詠んだ句に、桂信子の「ナイターの灯の圏外に車群る」がある。同じくらがりに着目しても、人の想いはさまざまだ。面白いものである。球場の仕事で思い出したが、まだ電動化されていなかった頃の甲子園のスコアボードの内部を見せてもらったことがある。スコアを表示する原理はきわめて簡単で、点数や選手の名が書かれたボードを、その都度巨大な箱に穿たれた穴の背部に嵌め込んでいくだけだ。とはいえ、その一枚一枚のボードが大きく、しかも真夏ともなれば箱の中の温度は地上の比ではないから、相当な重労働であったろう。昔、野球を見に行くと、ときどきスコアボードの穴から顔を出しているおじさんが見えたものだが、あれはたぶん中が暑くて辛抱たまらなかったからなのだろうと、その折に納得したのだった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1262006

 母とみる帽子の底の初蛍

                           松本秀一

語は「(初)蛍」で夏。子どもの頃の思い出だ。子と母のどちらが捕った蛍だろうか。子どもなら、年齢は小学生くらいで、今年はじめての蛍を発見し、帽子を脱いで追いかけてつかまえた。それを母親に見せたい一心で、走って家に戻り、母と頬を寄せながらそおっと帽子を開くと、底のほうで蛍が明滅している。「ねっ」と、母を見上げる得意満面な子の表情が浮かんでくるようだ。母が捕まえてきたのだとすれば、子どもはまだ幼い。「初蛍」はこの夏に見るはじめての蛍ではあるけれど、ここには子どもにとっての初見の「蛍」の意も込められているような気がする。「ほら、ホタルよ。きれいでしょ」。言われて子どもは帽子をのぞき、また母親の顔を見てにっこりし、そしてまた不思議そうに帽子の底を見ている。どちらにしても微笑ましい情景だが、そのことを越えて掲句が私に響くのは、昔はこのように、自然を媒介にした親子の交流があったことを思い出させてくれたことだ。蛍ばかりじゃない。夏になればセミだとかカブト虫だとか、カタツムリやナメクジも出てくるし、ときにはゲジゲジにだって親子の会話は弾んだものだった。このことがいかに親子の交流を円滑にし、子育てにも有用だったか。親が子を殺し、子が親を殺す。近年はそんな事件が珍しくなくなったが、それもこれもがみんな蛍がいなくなったせいだと言えば、きっと呆れて嗤う人も多いだろう。しかし私は大真面目にそう思っているし、全国的な蛍の減少の過程がそのまま人心の荒廃度に比例してきたと信じている。この句の作者のように、蛍の季節になれば、自然に母親のことを思い出す。そういう子どもは、もうほとんど今の世の中にはいないのである。『早苗の空』(2006)所収。(清水哲男)


June 1162006

 ことのほか明るき佐渡や梅雨に入る

                           関根糸子

語は「梅雨に入る」で夏。「入梅」に分類。作者は「佐渡」にいるのではなく、対岸の本土側から佐渡島を眺めているのだろう。曇天や雨だと佐渡はよく見えないけれど、今日は特別と言いたいくらいの上天気で、「ことのほか」明るく見えているのだ。ええっ、そんなに晴れているのに、では、なぜ「梅雨に入る」なのかと疑問を感じる読者もおられると思う。専門俳人でも、こんがらがってしまう人がいるくらいだから、無理もない。実は掲句は、暦の上の「入梅」という日を詠んだものである。立春から数えて一三五日目を昔の暦では「入梅」と定めていて、今年はそれが今日に当たる。だから、たとえば「立春」がちっとも春らしくない日だったりするのと同じことで、「梅雨に入る」と言ってもしとしとと雨が降っているとは限らない。句のように、快晴の日もあったりするわけだ。日本の暦は農作業の目安に使われることが多かったから、あらかじめ「入梅」の日を設定しておいて、それを目安に仕事を運んでいた。雨の季節にはできなくなる仕事を、あらかじめ片付けておくのに、暦の「入梅」は必要だったのである。もうここまで書けばどなたもおわかりのように、掲句の作者は「入梅」の日というのに、こんなにも晴れてしまった天の配剤に(あるいは天のしくじりに)、大いに気を良くしている。これからの本当の雨期には見えなくなる佐渡の姿を、上機嫌で見ている作者の表情までもが目に浮かぶようだ。歳時記などを繰ってみても、なかなか「入梅」の本意にそくした句は見つからないが、掲句はまっとうに本意を押し出している句として記憶されてよい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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