読者諸兄姉に背中を押され、ここまでたどりつくことができました。ありがとうございます。




2006ソスN6ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0162006

 東京へ来て天丼と鮨ばかり

                           樫原雅風

語は「鮨(鮓)」で夏。ははは、この気持ちは、とてもよくわかります。おそらく東京は、世界一外食メニューの豊富な都市だろう。「懐具合に余裕があれば」という条件はつくけれど、少し探せば何でも食べられる。なかには、どうやって食べるのか、見当もつかない料理を出す店があったりする。そんな東京に、せっかく出てきていながら、作者は「天丼と鮨ばかり」食べている。さあ、何を食べようか。と、一応はいろいろ見て回ったりはするのだが、結局は無難で平凡なメニューを選んでしまう自分に苦笑している図だ。仲間でもいればまだしも、一人で見知らぬ街の新しいメニューに挑戦するには、かなりの勇気を要する。とどのつまりが気後れしてしまい、気がついてみたら「天丼と鮨ばかり」食べていたというわけだ。むろん個人差はあるだろうが、旅行者としての私も作者に近い。どこかに出かけて、その土地の名物などはあらかじめ調べてあるくせに、いざとなると無難な饂飩だとか、ときにはマクドナルドのハンバーガーあたりですましたりしてしまう。とりわけて旅行先が外国ともなれば、メニューが読めない都市もあって、店それ自体に入るのも恐ろしい。昔の話だが、ギリシャに出かけたときなどは、店の看板すら読めないので、どの店がレストランなのかもわからない。仕方が無いので、街頭で売っているシシカバブーばかり食べていたこともある。したがって、旅から戻ったときに、誰かから「なにか美味しいもの、食べてきた?」と聞かれるのが、最もつらい。掲句の作者も、きっとそうだろう。まさか「天丼と鮨ばかり」と答えるわけにもいかないし、情けなくも「いや、まあ……」などと口を濁している図までが、目に浮かぶようだ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


May 3152006

 釘文字の五月の日記書き終る

                           阿部みどり女

語は「五月」。五月も今日でおしまいだ。今年の五月は天候不順のせいで、いわば消化不良状態のままで終わってゆく。日記をつけている人なら、毎日の天気の記載欄を見てみると、あらためて「晴れ」の日の少なかったことに驚くだろう。それはともかく、掲句は句集の発行年から推して、作者八十代も後半の作かと思われる。「釘文字」は、折れ曲がった釘のように見える下手な文字のことだ。もちろん謙遜も多少はあるのだろうが、しかし九十歳近い年齢を考えると、その文字に若き日のような流麗さが欠けているとしてもおかしくはない。つまり、やっとの思いで文字を書いているので、金釘流にならざるを得ないということだと思う。そんな我ながらに下手糞な文字で、ともかく五月の日記を書き終え、作者はふうっと吐息を漏らしている。そして、そこで次に浮かんでくる感慨は、どのようなものであったろうか。一般的に、高齢者になればなるほど時の経つのが早いと言われる。作者から見れば、まだ息子の年齢でしかない私ですら、そんな感じを持っている。すなわち、もう五月が終わってしまい、ということは今年もあっという間に半分近くが過ぎ去ったことに、なにか寂寞たる思いにとらわれているのだろう。このときに「釘文字」の自嘲が、寂寞感を増すのである。句の本意とは別に、この句は読者に読者自身の文字のことを嫌でも意識させる。私のそれは、学生時代にガリ版を切り過ぎたせいだ(ということにしている)が、かなりの金釘流だ。おまけに筆圧も高いときているから、流麗さにはほど遠い文字である。若い頃は、文字なんて読めればいいじゃないかと嘯いていたけれど、やはり謙虚にペン習字でもやっておけばよかったと反省しきりだ。が、既にとっくに遅かりし……。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)


May 3052006

 セルむかし、勇、白秋、杢太郎

                           久保田万太郎

語は「セル」で夏。薄手のウールのことで、初夏の和服に用いられ、肌触りが良く着心地が良い。。明治になって織られはじめ、一時大流行したという。掲句には「『スバル』はなやかなりしころよ」の前書きがある。「セル」を着る季節になって、作者はその大流行の時期に文芸誌「スパル」で活躍した何人もの文人たちを、懐かしく思い出している。「勇」は歌人の吉井勇のことだが、あるいは句の三人がセルを着て写っている写真があるのかもしれない。石川啄木が編集長だった創刊号が出たときには、作者は十歳くらいであったから、その後の多感な少年期にリアルタイムで「スバル」を読み、大いに刺激を受け啓発されたのだったろう。しかも、その執筆メンバーの、なんとはなやかで豪華だったことか……。この他にも、森鴎外がいたし与謝野晶子がいたし、若き高村光太郎も参加していた。この句には、いかにも文壇好きという万太郎の体質が出ているけれど、ひるがえってもはや後年、こうして懐旧されることもないだろう現代の文学界に対して、こういう句を読むと寂しさを覚える。なかで「俳壇」だけは現在でもかろうじて健在とは言えそうだが、しかし半世紀後くらいにこのように懐かしんでくれる読者がいるだろうかと思うと、はなはだおぼつかない。その要因としては、むろん明治や大正とは違い、メディアの多様化や受け手の関心の細分化などがあるとは思う。が、しかしジャンルとしては昔のままの文学様式はまだ生きているのだから、そこには志や情熱の熱さの往時との差があるのかもしれない。物を書いて飯が食えなかった時代と食える時代との差。そう考えることもできそうだ。俳誌「春燈」60周年記念号(2006年3月)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます