各地で「不正」に年金免除。えっ、免除が何故不正なの? そうか、そういうわけだったのか。




2006ソスN5ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2852006

 クレヨンの黄を麦秋のために折る

                           林 桂

語は「麦秋、麦の秋」で夏。子どものころの思い出だ。ちょうど今頃の田園風景を写生していて、一面の麦畑を描くのに「クレヨンの黄」を頻繁に、しかも力を込めて描いていたので、ポキリと折れてしまった。「しまった」と思ったが、もう遅い。仕方なく、折れて短くなったクレヨンで描きつづけたのだろう。短いクレヨンは描きにくいということもあるが、子どもにとってのクレヨンは貴重品だから、まずは折ってしまったそのことに、とても動揺したにちがいない。それが証拠に、大人になっても作者はこうして、麦秋の季節になるとそのことを思い出してしまうのだから……。そんな子ども時代の失敗も、しかしいまでは微笑しつつ回顧することができる。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。年齢を重ねれば重ねるほどに、この思いは強くなってゆく。そういえば、昔のクレヨンは色数が少なかった。私の頃には、せいぜいが10色か12色。なかには6色なんてのも、あったっけ。だから、折ってしまうと余計に悲しくなったわけだが、私の娘の小学生時代になると、色数も増え豪華になった。娘がはじめてクレヨンを買った日に、私はしばらくうっとりと眺めた記憶がある。『銅の時代』(1985)所収。(清水哲男)

{掲句の解釈}読者の方から、わざとクレヨンを折って、すなわちエッジを立てて麦の穂を描いた。と、体験談をいただきました。そうですね、「麦秋のために」の「ために」は、「わざわざ」という意味を含みますから…。「麦秋のせいで」と解釈した私の解釈は、ゆらいできました。


May 2752006

 柿若葉青鯖売りの通りけり

                           田中冬二

語は「柿若葉」て夏。花よりも葉の美しさを愛でる人が。圧倒的に多い植物だ。この葉が土蔵の横あたりで光りだすと、まさに「夏は来ぬ」ぬ実感がわく。そこに、寒い間は足が遠のいていた「青鯖売り」が通りかかった。やっと陽気がよくなったので、遠い山道を歩いてやってきたのだ。これからいつもの夏のように柿の葉陰で荷を開くのだろう。まだ青鯖は見えていないのだけれど、作者はもう、柿の青葉に照り映える鯖の青さを感じている。私にも体験があるのでわかるのだが、山国に暮らす人には、とりわけ海の魚の色は目にしみるものだ。このように田中冬二は色使いの上手な詩人で、たとえば「雪の日」という短い詩は。次のように書き出されている。「雪がしんしんと降つてゐる/町の魚屋に/赤い魚青い魚が美しい/町は人通りもすくなく/鶏もなかない 犬もほえない……」。揚句とは季節感が大いに異なるが。「雪の白」と「魚の青や赤」の対比が、実に良く効いている。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)


May 2652006

 売られゆくうさぎ匂へる夜店かな

                           五所平之助

語は「夜店」で夏。作者は、日本最初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』や戦後の『煙突の見える場所』などで知られる映画監督だ。俳句は、久保田万太郎の指導を受けた。掲句はありふれた「夜店」の光景ながら、読者に懐かしくも切ない子供時代を想起させる。地べたに置かれた籠のなかに「うさぎ」が何羽か入っていて、それを何人かの子どもらが取り囲んでいる。夜店の生き物は高価だ。ましてや「うさぎ」ともなれば、庶民の子には手が届かない。でも、可愛いなあ、飼ってみたいなあと、いつまでも飽かず眺めているのだ。このときに、「うさぎの匂へる」の「匂へる」が、「臭へる」ではないところに注目したい。近づいて見ているのだから、動物特有の臭いも多少はするだろうが、この「匂へる」に込められた作者の思いは、「うさぎ」のふわふわとした白いからだをいとおしく思う、その気持ちだ。「匂うがごとき美女」などと使う、その「匂」に通じている。この句を読んだとたんに、おそらくは誰もがそうであるように、私は十円玉を握りしめて祭りの屋台を覗き込んでいた子どもの頃を思い出した。そして、その十円玉を祭りの雑踏のなかで落としてしまう少年の出てくる映画『泥の川』(小栗康平監督)の哀切さも。『五所亭句集』(1069)所収。(清水哲男)




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