一度壊れると、パソコンは大変だ。昨日荒療治で修復したものの、細かい再設定が面倒。




2006ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752006

 柿若葉青鯖売りの通りけり

                           田中冬二

語は「柿若葉」て夏。花よりも葉の美しさを愛でる人が。圧倒的に多い植物だ。この葉が土蔵の横あたりで光りだすと、まさに「夏は来ぬ」ぬ実感がわく。そこに、寒い間は足が遠のいていた「青鯖売り」が通りかかった。やっと陽気がよくなったので、遠い山道を歩いてやってきたのだ。これからいつもの夏のように柿の葉陰で荷を開くのだろう。まだ青鯖は見えていないのだけれど、作者はもう、柿の青葉に照り映える鯖の青さを感じている。私にも体験があるのでわかるのだが、山国に暮らす人には、とりわけ海の魚の色は目にしみるものだ。このように田中冬二は色使いの上手な詩人で、たとえば「雪の日」という短い詩は。次のように書き出されている。「雪がしんしんと降つてゐる/町の魚屋に/赤い魚青い魚が美しい/町は人通りもすくなく/鶏もなかない 犬もほえない……」。揚句とは季節感が大いに異なるが。「雪の白」と「魚の青や赤」の対比が、実に良く効いている。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)


May 2652006

 売られゆくうさぎ匂へる夜店かな

                           五所平之助

語は「夜店」で夏。作者は、日本最初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』や戦後の『煙突の見える場所』などで知られる映画監督だ。俳句は、久保田万太郎の指導を受けた。掲句はありふれた「夜店」の光景ながら、読者に懐かしくも切ない子供時代を想起させる。地べたに置かれた籠のなかに「うさぎ」が何羽か入っていて、それを何人かの子どもらが取り囲んでいる。夜店の生き物は高価だ。ましてや「うさぎ」ともなれば、庶民の子には手が届かない。でも、可愛いなあ、飼ってみたいなあと、いつまでも飽かず眺めているのだ。このときに、「うさぎの匂へる」の「匂へる」が、「臭へる」ではないところに注目したい。近づいて見ているのだから、動物特有の臭いも多少はするだろうが、この「匂へる」に込められた作者の思いは、「うさぎ」のふわふわとした白いからだをいとおしく思う、その気持ちだ。「匂うがごとき美女」などと使う、その「匂」に通じている。この句を読んだとたんに、おそらくは誰もがそうであるように、私は十円玉を握りしめて祭りの屋台を覗き込んでいた子どもの頃を思い出した。そして、その十円玉を祭りの雑踏のなかで落としてしまう少年の出てくる映画『泥の川』(小栗康平監督)の哀切さも。『五所亭句集』(1069)所収。(清水哲男)


May 2552006

 光りかけた時計の表梅若葉いま

                           北原白秋

語は「若葉」で夏。ちなみに「柿若葉」「椎若葉」「樫若葉」という季語はあっても、「梅若葉」の季語はない。やはり、何と言っても梅は花が第一だからだろう。しかし、それを承知で「梅若葉」とやったところに、白秋の少しく意表を突き新味を出そうとするセンスが感じられる。「時計」は柱時計で、窓際近くに掛けられている。そこに折りからの初夏の日差しがとどいて文字盤が「光りかけ」、窓から見える梅は若葉の盛りだ。柿若葉のように葉に艶はないけれど、いかにも生命力の強そうな感じの葉群が見えている。状況からして午前中も早い時間の光景であり、活力のある一日のはじまりが告げられている。白秋らしい明るい句だ。大正末期の作と推定され、白秋はこの時期に集中して自由律俳句を書いたが、以降は短歌に転身してしまう。体質的に、情を抒べられる短歌のほうが似合ったのだろう。このあたりのことを考えあわせると、五七五の定型句ではなく自由律を好んだ理由もわかるような気がする。「梅若葉」で、もう一句。「飯の白さ梅の若葉の朝」。朝の食卓に、梅若葉の清々しくも青い影が反射している様子だ。ただ、私には「飯の白さ」が気にかかる。米騒動が起きたほどの米価高騰時代の作としては、白秋は単なる彩りに詠んだつもりかもしれないが、当時の読者のなかにはむかっと来た者も少なくはなかったはずだからだ。『竹林清興』(1947)所収。(清水哲男)




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