共謀罪なんぞという解釈次第でどうにでもなる法律がまかり通る国にまで成り下がるとは。




2006ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052006

 青春や祭りの隅に布団干し

                           須藤 徹

語は「祭(り)」。俳句で「祭」といえば夏のそれを指し、古くは京都の「葵祭」のみを言った。他の季節の場合には「秋祭」「春祭」と季節名を冠する。その葵祭や東京の神田祭も過ぎ、昨日から明日までは浅草の三社祭である。夏の祭とはいっても、各地の大きな祭礼はたいてい初夏の間に終わってしまう。掲句を読んで、京都での学生時代を思い出した。京都に住んでいると、春夏秋冬にいろいろな祭りや行事があるけれども、二十歳そこそこの私には、そのほとんどに関心が持てなかった。とくに京都の場合は多くが観光化しているので、人出だけがやたらに多く、ちゃんと見るなんてことはできなかったせいもある。が、それ以上に、祭りだと言って浮かれている人々と一緒になりたくないという、おそらくは「青春」に特有の偏屈さが働いていたためだと思う。句のように、なんとなく街中が浮いた感じの「祭りの隅」にあって、そんな祭りを見下す(みくだす)かのように、布団干しなどをしている自分の姿勢に満足していたのである。今となっては、素直に出かけておけばよかったのにと後悔したりもするのだが、しかし、そうはしないのが「青春」の青春たる所以であろう。何でもかでも無批判に、世間の動きにのこのこと付き従っているようでは、若さが泣こうというものだ。掲句はそこまで強く言っているわけではないが、青春論としてはほぼ同じアングルを持っている。遠くからの笛や太鼓の音が、青春に触れるとき、若さはまるで化学反応を起こすかのように、しょぼい布団干しなどを思いついたりするのである。『荒野抄』(2005)所収。(清水哲男)


May 1952006

 日をにごり棒で激しくたたく鶏

                           高岡 修

季句。ただ「日をにごり」という措辞からすると、梅雨時の蒸し蒸しとした午後の一刻がイメージされる。むろん、想像句だろう。決して愉快な句ではないけれど、この情景も人間の持つ一面の真実を表現している。どろんとした蒸し暑さのなかで、不意に湧いてきたサディスティックな衝動。その衝動のおもむくままに、そこらへんにいた罪もない無心の「鶏(とり)」を棒で激しくたたいている。そして、このこと自体はフィクションであっても、「たたく」という行為は覚えのあるものなので、句のイメージのなかに入り込んだ作者は、自分の発想に惑乱しているのだ。鶏相手の打擲(ちょうちゃく)だから、力の優位性は一方的なのであるが、一方的であればあるほど、たたく側に生まれてくるのは一種の恐怖心に近い感情である。少年時代に短気だった私はよく腹を立て、小さくて弱い子をたたいたこともあるので、たたいているうちに湧いてくる恐怖心をしばしば味わった。凶暴な自分に対する恐れの気持ちも少しはあるが,それよりもこのまま狂気の奈落へと転落してしまいそうな、曰く言い難い滅茶苦茶な心理状態に溺れていきそうな恐怖心だった。掲句は、そうしたわけのわからない人間の感情的真実を、一本の棒と一羽の鶏とを具体的に使うことで、読者に「わかりやすく」手渡そうとしているのだと読んだ。『蝶の髪』(2006)所収。(清水哲男)


May 1852006

 背を流す人を笑いて母薄暑

                           大菅興子

語は「薄暑(はくしょ)」で夏。句集から察するに、作者のご母堂はいわゆる「認知症」の方のようだ。介護の「人」に、入浴させてもらっている。でもその「母」は、何が可笑しいのか、その「人」のことを笑っているのだ。この笑いは、もしかすると「嗤い」に近い無遠慮な「笑い」なのかもしれない。このような事情と状況からして、夜ではなく、まだ明るい時間の入浴だろう。表は汗ばむような陽気で、ときおり緑の風も心地良く吹いている。これで母が何事もなく健康でいてくれさえしたら、もうそれ以上望むことなどは何もないのに……。作者のやり場のない思いが、哀感とともにじわりと伝わってくる。作者をよく知る鈴木明(「野の会」主宰)が掲句について、句集の序文で次のように書いており、この解説にも感銘を受けた。「この利己的ともいえる母を作者は許している。母の老いを切なく許すのだ。しかもけっして人には言えぬこと。しかし俳句という定型詩がその彼女を解放する。老いた母親同様に自由の精神を彼女にふるまう。ここで思っていても言えなかったことを俳句で言えたのだ。そのことで、いままで見えなかった精神世界がひらかれたと、私は思う。興子俳句はこうして前進する。真に、文芸のめざす視野がひらけてくる」。俳句ならではの表現領域が確かにあることを、この文章で再確認させられたことであった。『母』(2006)所収。(清水哲男)




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