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May 1852006

 背を流す人を笑いて母薄暑

                           大菅興子

語は「薄暑(はくしょ)」で夏。句集から察するに、作者のご母堂はいわゆる「認知症」の方のようだ。介護の「人」に、入浴させてもらっている。でもその「母」は、何が可笑しいのか、その「人」のことを笑っているのだ。この笑いは、もしかすると「嗤い」に近い無遠慮な「笑い」なのかもしれない。このような事情と状況からして、夜ではなく、まだ明るい時間の入浴だろう。表は汗ばむような陽気で、ときおり緑の風も心地良く吹いている。これで母が何事もなく健康でいてくれさえしたら、もうそれ以上望むことなどは何もないのに……。作者のやり場のない思いが、哀感とともにじわりと伝わってくる。作者をよく知る鈴木明(「野の会」主宰)が掲句について、句集の序文で次のように書いており、この解説にも感銘を受けた。「この利己的ともいえる母を作者は許している。母の老いを切なく許すのだ。しかもけっして人には言えぬこと。しかし俳句という定型詩がその彼女を解放する。老いた母親同様に自由の精神を彼女にふるまう。ここで思っていても言えなかったことを俳句で言えたのだ。そのことで、いままで見えなかった精神世界がひらかれたと、私は思う。興子俳句はこうして前進する。真に、文芸のめざす視野がひらけてくる」。俳句ならではの表現領域が確かにあることを、この文章で再確認させられたことであった。『母』(2006)所収。(清水哲男)


June 2062006

 金魚の本此の世は知らないことばかり

                           大菅興子

語は「金魚」で夏。「金魚の本」とは図鑑の類いではなく、飼い方などが説明されている本だろう。いわゆる入門書だ。金魚を飼うことになり、書店で求めてきた。開いてみて、金魚については多少の知識はあると思っていたのに、読んでいくと次々に「知らないことばかり」が書かれてあった。呆然というほどではないけれど、少しくうろたえてしまったと言うのである。金魚についてすらこうなのだから、私には「此の世に」知らないことが、どれほどあることか。そう考えると、今度は本当に呆然としてしまうのだった。その通りですね、同感です。ちょっと脱線しますが、私は若い頃、入門書なんてと小馬鹿にしているようなところがありましたが、いまでは心を入れ替えて、何かをはじめるときには必ず丁寧に読むようにしています。というのも、まあお金のためではありましたが、三十代の頃に、少女のための詩の入門書を書いたことがあります。そのときに、書きながらつくづく思い知らされたのは、入門書ほど正確な知識と明晰な書き方を要求される本はないということでした。いわゆる言葉の綾で伝えようとか、筆先で以心伝心を願うとかといった書き方は、いっさい通用しません。あくまでも正確に明晰にと筆を進めなければならず、掲句の作者とは反対の立場からですが、私はなんと物を知らないできたのかと、それこそ呆然としたことを覚えています。以来、どんな入門書にも敬意をはらうことになったというわけです。戦後の詩の入門書で白眉と言えるのは、鮎川信夫の『現代詩作法』でしょう。私も多大な影響を受けましたが、著者である鮎川さんも入門書好きな方で、何かをはじめる前には必ず読まれていたそうです。たとえそれがゴルフであっても、畳の上の水練と言われようとも、まずは入門書を熟読してからはじめられたという話が、私は好きです。『母』(2006)所収。(清水哲男)




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