「詩人の眼・大岡信コレクション展」。作品保護のためとはいえ照明が暗すぎる。疲れた。




2006ソスN5ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1252006

 目覚めるといつも私が居て遺憾

                           池田澄子

季句。その通りっ、異議なしっ。「私」は邪魔くさい、「私」は面倒だ。「目覚める」ことは我にかえることだからして、毎朝「我」の存在にに気づかされる「私」は、それだけでもう、かなり疲れてしまう。「私」だから満員電車に乗って会社や学校に行かなければならないのだし、「私」だからみんなのパンを焼いたりゴミを出したりしなければならないのだ。この事態は、まことにもって極めて「遺憾(いかん)」なことではないか。「遺憾」とは、「思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒」[広辞苑第五版]の意だ。この言葉は政治家の無責任な常套語みたいになっているので、その感じで読めば、掲句は滑稽な感じにも読める。だが、ある長患いの人が言っていた。「朝になると、病人の自分に嫌でも気づかされるんですよ。で、がっかりするんです。眠っている間に見る夢は、元気な時代のものが多くて、とても楽しいのに」と。また、ある高齢者は「夢の中ではスタスタと歩いている自分がいるんです。でも、目が覚めるとねえ……」とつぶやいた。こうした読者にとっては、掲句はとても切実で、切なく真に迫ってくるだろう。作者の池田さんには、早起きは苦手だとうかがったことがある。なにも好きこのんで、朝っぱらから「遺憾」な思いをすることはない、ということからなのだろう(か)。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


May 1152006

 行く道も気づけばいつか帰り道

                           高野喜久雄

季句。作者は鮎川信夫、田村隆一らと同じ「荒地」の詩人で、この五月一日に七十八歳で亡くなった。訃報に接して、高野さんがホームページを持っておられたことを思い出し、行っていろいろと読んでいくうちに、掲句を含む「寒蝉10句」を見つけたのだった。決して上手な句ではないけれど、亡くなられた現実を背景にして読むと、切なさがこみあげてくる。自分では希望を抱いて前進してきたつもりの道が、「気づけばいつか帰り道」だったとは……。一般的には、高齢者によくある感慨の一種とも取れようが、よく知られた初期詩編の「独楽」に書かれているように、このような「気づき」は若い頃からの作者に特有のものだった。「独楽」全行を引いておく。「如何なる慈愛/如何なる孤独によっても/お前は立ちつくすことが出来ぬ/お前が立つのは/お前がむなしく/お前のまわりをまわっているときだ//しかし/お前がむなしく そのまわりを まわり/如何なるめまい/如何なるお前の vieを追い越したことか/そして 更に今もなお/それによって 誰が/そのありあまる無聊を耐えていることか」。そして、もう一句。この詩をもっと作者自身に引き寄せて書けば、こういうことになるのだろう。「彫りながら全てを木屑にかえす朝」。……ご冥福をお祈りします。合掌。「高野喜久雄HP・詩と音楽の出会い」所載。(清水哲男)


May 1052006

 裏口にいつも番犬柿の花

                           いのうえかつこ

語は「柿の花」で夏。まだ少し早いかもしれないが、関東あたりではそろそろ咲きはじめてもよい頃である。さて、いつ通りかかっても、ひっそりとしている家がある。我が家の近所にもある。番犬がいるのだから、誰かは住んでいるのだろうけれど、日常的にあまり人の気配というものが感じられない。昼間は家族がみんな外出しているのか、あるいは老夫婦あたりが静かに暮らしているのだろうか。なんとなく、気になる。そして、この番犬はいつも退屈そうにうずくまっているような感じだ。傍を通っても、べつだん吠えるでもなく睨みつけるでもない。といって愛想良く尻尾を振るでもないという、いささか覇気に欠ける犬なのだろう。もう、相当な年寄り犬なのかもしれない。そんな番犬のいる裏庭に、今年も「柿の花」が咲きはじめた。地味な花である。黄色がかった小さな白い花が、枝々の葉の根元に点々と見え隠れしている。この地味な花と気力の無い犬と、そして裏口と……。これだけの取り合わせから、この家のたたずまいのみならず、近所の情景までもが浮き上がってくるところに、掲句の妙味と魅力がある。さらりとスケッチをしただけなのに、この句の情報量はかなりのものだ。俳句ならではの力があり、作者もよくそのことを承知して詠んでいる。『馬下(まおろし)』(2004)所収。(清水哲男)




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