本日よりセパ交流戦開始。阪神はいきなり対ロッテ戦だ。絶対に、リベンジたのんまっせ。




2006ソスN5ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0952006

 山河また一年経たり田を植うる

                           相馬遷子

語は「田植」で夏。今日あたりも、掲句の感慨をもって、田植えに忙しい農家も多いだろう。子供心にも、この季節になるたびに「また一年経たり」の思いはあった。学校は農繁期休暇となり、小さい子はともかく、小学校も四年生くらいになると、みな田圃に出て植えたものだ。田植えは人手を要するので、集落の人々が協力してその地の田を順番に植えることになっており、自分の家の田だから、呑気にマイペースで植えるというわけにはいかない。どこの家の田圃であろうとも、植える時間などは一定の決まりのもとで行われていた。したがってまだ暗いうちに起き、日の出とともに田圃に入るのだったが、夏というのに早朝の田水の冷たかったの何のって、しびれて感覚がなくなるほどだった。畦から苗束がひとわたり投げ入れられると、いよいよはじまる。はじまったら、ただ黙々と植えてゆく。おしゃべりは、余計なエネルギーの浪費だからだ。はじめのうちは、田に苗を挿し込み,それをぐいと泥のなかでねじるのが難しい。しっかりねじこまないと、根付く前に浮いてきてしまう。そのうちにコツがのみこめ、なんとかいっちょまえに植えられるようにはなるのだが、なんといっても辛いのは前屈みの姿勢をつづけることからくる腰の痛みだ。ときどき腰をのばしてとんとんと叩く図は、まるで老人だった。だから、十時と三時の休憩とお昼の時間の待ち遠しかったこと。そんなだったから、大人であろうが子どもであろうが、田植えの夜は泥のように眠ったものだった。そして休暇後に学校に提出する日記には、「今日は田植えをしました。明日はもっと働きたいと思います」と書いたのである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0852006

 薫風に民謡乗せて集塵車

                           梅崎相武

語は「薫風(くんぷう)」で夏、「風薫る」に分類。青葉のなかを吹き抜けるすがすがしい風だ。さて、ゴールデンウイークが終わった。今日から、日常の生活リズムが戻ってくる。連休中は不規則だったり休みだったりしたゴミの収集も、平常通りとなる。お馴染みのメロディとともに回ってくる「集塵車」に、日常を感じる人は多いだろう。作者の暮らす地域(兵庫県尼崎市)の集塵車は「民謡」を流しながら回ってくるようだが、これは全国的にも珍しいのではなかろうか。詳しく調べたわけではないけれど、たいていの自治体では子どもなどにも親しめる童謡系のメロディを採用しているという印象が強い。民謡のタイトルはわからないが、薫風に乗って民謡の節が聞こえてくるのは素敵だ。粋でもある。とはいえ、まさかお座敷歌なんてことはないだろうから、もともとが戸外の歌であった労働の歌が心地良い風に乗って流れてくる情景を、読者はそれこそすがすがしい気持ちで想像することができる。ところで、我が自治体の三鷹市の集塵車は無音だ。無音のままにやってきて、無音のままに去ってゆく。むろん騒音公害を避けるための処置とはわかるのだが、うっかり集積所に出すのを忘れたりしたときなどには不便である。気がついてあわてて出しに行くと、もう去ったあとだったりして、がっかりだ。ただ三鷹市の場合は、連休中も、ゴミの収集は平常通りに行われた。不規則収拾になるのは年末年始だけなので、その意味から考えると,集塵車の無音にも騒音防止以上の理由があるとは言えるのだが……。『南雨』(2006)所収。(清水哲男)


May 0752006

 近景に薔薇遠景にニヒリスト

                           喜田礼以子

語は「薔薇」で夏。我が家の庭の薔薇が、二輪咲いた。ろくに手入れもしないのに、毎年この時期になると、真紅の花を咲かせてくれる。赤い薔薇の花言葉には「情熱」「熱烈な恋」などがあるそうだが、いかにもという感じだ。見ていると、圧倒されそうな気持ちになる。赤い薔薇にまともに対峙するには、つくづく若さと体力とが必要だなと思う。単なる花だとはいっても、薔薇にはあなどり難い迫力がある。その情熱的な花を作者は近景に置き、遠景にニヒリストを置いてみせた。すなわち近くの情熱に配するに、遠いニヒリズムだ。ニヒリズムとは何か。ニーチェによれば、「徹底したニヒリズムとは、承認されている最高の諸価値が問題になるようでは、生存は絶対的に不安定だという確信、およびそれに加えて、“神的”であり、道徳の化身でもあるような彼岸ないしは事物自体を調製する権利は、われわれには些(いささ)かもないという洞察のことである」。とかなんとかの理屈はともかくとして、この遠近景の配置は、とどのつまりが作者の人生観を示しているのだろう。掲句を読んだ人の多くは、おそらくこの遠近景を試しにひっくり返してみるに違いない。ひっくり返してみたくなるような仕掛けが、この句には内包されているからだ。ひっくり返して、また元に戻してみると、そこにはくっきりと作者の人生に対する向日的な明るい考え方が浮かび上がってくるというわけだ。なかなかのテクニシャンである。『白い部屋』(2006)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます