月末にして大型連休前、さあ明日からは大車輪でいろいろとやっつけなければなりませぬ。




2006ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342006

 原宿を雨過ぎにけり蔦若葉

                           芹沢統一郎

語は「蔦若葉(つたわかば)」で春。晩春の頃の蔦の若葉。木々の「若葉」は夏の季語だが、草類の若葉は春である。掲句の「蔦若葉」は「原宿」にあるというのだから、表参道にあった同潤会青山アパートのそれだろう。このアパートは築後六十数年の老朽化のためすでに取り壊されており、跡地には安藤忠雄設計による新しい建物が建てられている。健在であった頃には、原宿に出かけるたびに、そのどっしりと安定した存在感に心癒されたものだった。とりわけてその昔、原宿にまだ若者たちが集まってこなかった時代には、古き良き時代の東京の住宅地を象徴するかのようなたたずまいを見せていた。このアパートが姿を消してからの原宿は、私のような年代の者にとって、どことなく落ち着かない街になってしまった。昔のそんな原宿に、通り雨だろうか。しばし柔らかな春の雨が降り注ぎ、そして程なく雨は止んだ。と、雲間から今度は明るく日が射してきて街を照らし、いささか古色を増してきた青山アパートの外壁に這う蔦若葉も生気を取り戻してきたのだった。雨に洗われた蔦若葉の光沢がなんとも美しく、作者はしばし路傍にたたずんで見上げていたのだろう。都会がときに垣間見せる都会ならではの美しさを、淡くさらりと水彩画風にスケッチしてみせた佳句である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2242006

 巣鴉をゆさぶつてゐる木樵かな

                           大須賀乙字

語は「巣鴉」で春、「鴉(からす)の巣」に分類。春になると鳥は交尾期に入り、孕み、巣を営む。雀、燕は人家などの軒に、雲雀は麦畑や草むらに、また鳰(にお)は水上に浮き巣をつくり、岩燕は岩石の空洞に巣をつくって産卵し、そして鴉は高い樹木や鉄塔の上に営巣するなど、それぞれの鳥によってまちまちである。掲句は、これから鴉の巣がある木を切り倒すのだろう。木樵(きこり)がしきりに、上の様子を見ながら木を「ゆさぶつてゐる」図だ。危険だから避難しろよと親鴉に告げているようにも見えるが、実際に危険なのはむしろ木樵のほうなのであって、鴉の攻撃を受けないために先手を打っているのだと解したい。鴉が人を襲うなど、最も凶暴になるのは子育ての季節だと言われている。「ひながかえってから巣立つまでの約1ケ月間は、オス・メス両方が食べ物を運び、ひなの世話をします。カラスの警戒心が最も強くなるのもこの頃で、巣のそばを人間が通った時に攻撃を受けることが多くなります」(HP「東京都カラス対策プロジェクト」より)。俗に「ショーバイ、ショーバイ」と言ったりするが、その道のプロには、傍目にはなかなかわからない目配りが必要な一例だ。作者は、そういうことがわかって詠んでいるのかどうか。気になるところではあるけれど、もはや手斧や鋸で樹木を伐採する時代ではなくなった今日、この句がどこかのんびりとしたふうに読めてしまうのは、止むを得ないのかもしれない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 2142006

 春山にかの襞は斯くありしかな

                           中村草田男

語は「春(の)山」。うっかりすると見逃してしまいそうな地味な句に見えるが、しばし故郷から遠く離れて暮らしている人にとっては、ふるいつきたくなるような句だろう。作者が、久方ぶりに郷里の松山に戻ったときに詠んだ「帰郷二十八句」の内の一句。「東野にて」の前書きがある。私にも体験があるが、故郷を訪れて最も故郷を感じるのは、昔に変わらぬ山河に対面するときだ。新しい道ができていたり建物が建っていたりするトピック的な情景には、それはそれで興味を引かれるけれど、やはり帰郷者が求めているのは子供の頃から慣れ親しんだ情景である。ああ、そうだそうだ。あの山の襞(ひだ)は昔も「斯(か)く」あったし、いまもそのまま「斯く」あることに、作者は深く感動し喜びを覚えている。変わらぬ山の姿が、過去の自分を思い出させ、若き日の自分と現在の自分とを対話させ、そしてその一切が眼前の山に吸い込まれてゆく。「父にとって『かの襞』はほとんど『春山』の人格のようなものをさえ感じさせたことであろう」。めったに色紙を書くことのなかった作者に、掲句を書いてもらったという草田男の三女・中村弓子さんの弁である(「俳句α」2006年4-5月号)。父なる山河、母なる故郷などと、昔から自然はある種の「人格」に例えられてきたが、それらは単なる言葉の上の比喩ではなく、まさに実感の上に立った比喩であることが、たとえばこの句からも読み取れるのである。『長子』(1936)所収。(清水哲男)




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