蟄」隱槭′魑・縺ョ蟾」縺ョ句

April 2242006

 巣鴉をゆさぶつてゐる木樵かな

                           大須賀乙字

語は「巣鴉」で春、「鴉(からす)の巣」に分類。春になると鳥は交尾期に入り、孕み、巣を営む。雀、燕は人家などの軒に、雲雀は麦畑や草むらに、また鳰(にお)は水上に浮き巣をつくり、岩燕は岩石の空洞に巣をつくって産卵し、そして鴉は高い樹木や鉄塔の上に営巣するなど、それぞれの鳥によってまちまちである。掲句は、これから鴉の巣がある木を切り倒すのだろう。木樵(きこり)がしきりに、上の様子を見ながら木を「ゆさぶつてゐる」図だ。危険だから避難しろよと親鴉に告げているようにも見えるが、実際に危険なのはむしろ木樵のほうなのであって、鴉の攻撃を受けないために先手を打っているのだと解したい。鴉が人を襲うなど、最も凶暴になるのは子育ての季節だと言われている。「ひながかえってから巣立つまでの約1ケ月間は、オス・メス両方が食べ物を運び、ひなの世話をします。カラスの警戒心が最も強くなるのもこの頃で、巣のそばを人間が通った時に攻撃を受けることが多くなります」(HP「東京都カラス対策プロジェクト」より)。俗に「ショーバイ、ショーバイ」と言ったりするが、その道のプロには、傍目にはなかなかわからない目配りが必要な一例だ。作者は、そういうことがわかって詠んでいるのかどうか。気になるところではあるけれど、もはや手斧や鋸で樹木を伐採する時代ではなくなった今日、この句がどこかのんびりとしたふうに読めてしまうのは、止むを得ないのかもしれない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


April 0442008

 母校の屋根かの巣燕も育ちおらむ

                           寺山修司

らむの「お」は原句のまま。「小学校のオルガンの思い出」の前書がある。破調の独特の言い回しに覚えがあり、どこかで見た文体だと思ったら橋本多佳子の「雀の巣かの紅絲をまじへをらむ」に気づいた。かの、おらむがそのままの上に、雀の代りに燕を用いた。多佳子の句は昭和二十六年刊の『紅絲』所収。修司のこの句は二年後の二十八年。そもそも多佳子が句集の題にしたくらいの句であるから修司が知らないで偶然言い回しが似たということは考えがたい。修司、高校三年生の時の作品である。内容を比べてみると、多佳子の句は、結婚する男女は赤い糸で結ばれているという故事を踏まえ、切れてしまった赤い糸が今雀の巣藁の中に混じっているという発想。巣の中の赤い糸に見る即物の印象から一気に私小説のドラマに跳ぶ。修司の方はきわめて一般的な明解な思い。しかし、母校という言い方にしても、「かの」にしてもこの視点はすでに卒業後何年も経ってのものを演出している。十八歳にしてこの演出力はどうだ。典拠を模倣し、演出し、一般性をにらんで娯楽性を考える。寺山の芝居も映画もこのやり方で多くのファンを掴んだ。「だいだいまったく新しい表現なんてあるのかい」という寺山の声が聞こえてくるようだ。しかし、と僕はいいたいけれど。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)


March 0132009

 鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに

                           金子兜太

語は「鳥の巣」、春です。命が産み出される場所が、そのまま季節に結びついているようです。作者は、散歩で通りすがった雑木林の中から、春の空を見上げてでもいるのでしょうか。数メートル先の空には、小さな鳥の巣が見えています。そしてその先に視線を伸ばせば、遠くには高層マンションが見えています。鳥の巣と、高層マンション。大きさも堅さも中に住むものも、全く違っているものを、同じものとして見据えたところに、この句のすぐれた視点があります。「人の巣」という言い方は、一見、それほど際立った表現とは思えません。それでも、こうして句の中に置かれてみると、思った以上に新鮮で、目を見開かせるものを持っています。どうしたらこんなふうに、効果的な言い回しが出来るのだろう。あるいは人とは違う見方というものは、どこまでが表現の中で許されてあるのだろう。そんなことをこの句は、考えさせてくれます。句は最後に、人の巣が「留守勝ち」であると、言っています。あんなに高いところに、人のいない空間がぽつんと置き去りにされている。確かに、鳥の巣よりもずっと深い寂しさが、こちらに押し寄せてきます。「俳句」(2009年2月号)所載。(松下育男)


February 1922010

 親雀巣を出て遠く志す

                           山口誓子

子の句は句の立姿が美しい。僕にはそう見える。どんなにきちんと音律が整っていても類型的な情緒が盛られていては、ああ、また諷詠ですか、古いモダンですかと思ってしまう。作者としてのあなたはほんとうにそれで新しい自分がその一句に刻印されていると思うのですかと読者としての僕が問うとき誓子の句の多くはこれが私の考えている俳句ですと返してくれる。僕はそれに納得がいき、その返答を誓子の型の中にみる。そのとき美しいと思うのだ。親雀は子育ての本能からか、餌を求めて遠くまで行動範囲を広げる。校庭のような広いところでいつも餌をやっているとわかる。パン屑を咥えては巣のある一定方向にとび、しばらくしてまた帰ってくる。子育てのときの距離が長いのは、同じ雀が帰ってくる時間でわかる。見える事柄の「写生」から入って、次に妻子をもってこそ一人前だというような寓意に入る。最初から寓意や批評性を意図する作品と、結果的に寓意に到る作品。その順序は俳人の品位と才能にかかっている。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)


March 0232010

 芽柳や声やはらかく遊びをり

                           遠藤千鶴羽

先のお約束、あらゆる芽が出てくるなかで「柳は緑、花は紅」といわれるように、ことに美しさを極めるのは柳の芽であろう。万葉集に収められた大伴坂上郎女の「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」(佐保川沿いの柳が青々と芽吹き、もう春がくるのですね)にも見られる通り、古くから柳の美しさは詠み継がれている。掲句では中七の「声やはらかく」で柳の枝のしなやかさと若々しさがひと際明瞭になり、また上五の「芽柳」によって遊んでいるのは小さな女の子たちだろうと想像させ、両者が可憐な美を引き立て合っている。少女たちの声が、遊んでいるとわずかに分かる程度に、はっきり聞こえるでもなく、この世の言葉ではないような、まるで小鳥がさえずるかのごとく降りそそぐ。声がやわらかであるという、遠いとか小さいとかの距離でもなく音量でもない形容によって、声を持つ人間の存在を曖昧にさせ、より茫洋とした春の様子を浮かびあがらせているのだろう。そういえば、鈴を転がすような声、という言葉があるが、芽柳が風に吹かれる風情にも鈴が鳴るような華やぎがあると思うのだった。〈暗がりへ続く階段雛かざり〉〈巣作りの一部始終の見ゆる窓〉『暁』(2009)所収。(土肥あき子)


April 1742010

 からすゐてなんのふしぎぞ烏の巣

                           西野文代

がうるさくて眠れなかったと花魁がぼやいた、という江戸時代の文献があるとか。昔は神の使いだった烏もその頃から、身近な存在である反面やっかいなカラス、となってしまったのだろうか。都会のカラスが、枝のかわりに針金など光るものを選んで巣を作ると聞いてはいたが、昨年、色とりどりのハンガーらしきものでできた巣を目の当たりにして、あらためてそのたくましさと賢さに驚いた。確かにカラスといえば、ゴミ集積所で餌を漁っているとか、枯れ枝にとまっているとか、勝手に決めているふしがあり、巣におさまっている、というのはなんとなく不似合いな気がしてしまう。掲出句の作者にも同様の心持ちがあると同時に、カラスに対する視線は優しい。そしてそのおおらかな詠みぶりに、都心にしては大きい森で鳴き交わしていた、春の鳥らしいカラスを思い出した。これからの季節、少し神経質になったカラスが多少恐くてもうるさくても、ご近所に住む者同士、と思うことにしようか。『それはもう』(2002)所収。(今井肖子)


March 0732014

 鳥の巣に鳥が入つてゆくところ

                           波多野爽波

の巣は、春の季語。鳥がちょうど、巣に入っていく瞬間を捉えた。通常ならば、「鳥の巣に鳥が入つてゆきにけり」としてしまいがち。しかし、それでは、単なる事実の報告になってしまって、面白味がなくなってしまう。下五「ゆくところ」の「ところ」という把握と描写に、的確な写生の醍醐味を感じる。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)




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