アイ高野が逝った、55歳。ゴールデンカップス時代に唯一金を払って見に行ったアイドル。




2006ソスN4ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0542006

 濃山吹墨をすりつゝ流し目に

                           松本たかし

語は「山吹」で春。「濃山吹」は、八重の花の濃い黄色のものを言う。陽気が良いので障子を開け放っているのか、それとも閉め切った障子のガラス窓から表が見えるのか、作者は和室で「墨」をすっている。代々宝生流の能役者の家に育った人(生来の病弱のために、能役者になることは適わなかった)なので、墨をするとはいっても、何か特別なことをしようとしているわけではない。日課のようなものである。そんな日常を繰り返しているうちに、今年もまた山吹の咲く頃になった。春だなあ。庭の奥のほうに咲いた黄色い花を認めて、作者は何度も手元の硯からちょっと目を離しては、花に「流し目」をくれている。「流し目に」というのだから、顔はあくまでも硯に向けられたままなのだ。いかに山吹が気になっているかを、この言葉が簡潔に表現している。真っ黒な硯と濃い黄色の花との間を、目が行ったり来たりしているわけだが、この二つの色彩のコントラストが実に鮮やかで印象深い。句を眺めているうちに、作者のする墨の匂いまでが漂ってくるような……。春を迎えた喜びが、静かで落ち着いた句調のなかにじわりと滲み出ているところは、この作者ならではであろう。東京の山吹は、桜同様に今年は早く、そろそろ満開である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 0442006

 もう勤めなくてもいいと桜咲く

                           今瀬剛一

年退職者の感慨だ。サラリーマン時代には、花見といっても、どこか落ち着かない気分があった。見物していてもふいっと仕事のことが頭をよぎったり、いくら楽しくても明日のために早く帰宅せねばと気持ちが焦ったり、開放感がいまひとつなのだ。そこへいくと作者のように、晴れて定年退職した身には、たしかに桜が「もう勤めなくてもいい」と咲いているように思えるだろう。仕事や出勤のことを気にしなくてもよいのだから、余裕たっぷりで見物することができる。おそらくは、生まれてはじめてしみじみと見上げることのできた桜かもしれない。しかしながら人間とは複雑なもので、そんな開放感を味わいつつも、今度はどこかで「もう勤めなくてもいい」、会社に来なくてもいいという事態に、作者は一抹の寂しさを感じているような気もする。昨日のTVニュースでは、各社の入社式の模様が報道されていた。働く意欲に溢れた若者たちの緊張した表情が、美しくも眩しかった。とはいえ、若者たちにだとて複雑な思いはあるわけで、感受性が豊かであればあるほど、やはりこれからの長年の勤務のことが鈍く心の片隅で疼いていたには違いない。定年退職者の開放感と寂寥感と、そして新入社員の期待感と重圧感と……。それら世代を隔てた種々の思いが交錯する空間に、毎春なにごともないような姿で桜の花が咲くのである。「うすうすと天に毒あり朝桜」(宗田安正)。二句ともに「俳句」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


April 0342006

 花冷や石灯籠の鑿のあと

                           武田孝子

語は「花冷(え)」で春。桜の咲くころでも急に冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。神社か寺か、あるいはどこかの日本庭園だろうか。いずれにしても花を見に訪れたのだが、折り悪しく「花冷」とぶつかってしまった。たとえ花は満開だとしても、やはり花見は暖かくてこそ楽しいのである。それがちょっと肩をすぼめるような気温とあっては、いささか興ざめだ。このようなときには、気温の低さが平素よりも余計に肌にさすと感じるのが人情である。掲句はその微妙な心理的感覚を、そこに置かれていた地味な「石灯籠」に鋭い「鑿(のみ)のあと」を認めた目に語らせているというわけだ。ことさらに寒いとか冷え込むとかとは言わずに、石灯籠の鑿のあとを読者に差し出すだけで、作者のたたずむ場の冷え冷えとした情景を彷佛とさせている。一部の好事家は別として、日頃はさして気にもとめない石灯籠に着目し、その鑿のあとをクローズアップした構成が、この句の手柄と言えるだろう。句集のあとがきによれば、作者は母親が俳句好きだったことで、小学生のころから俳句に親しみを覚えていたというが、さもありなむ、五七五が俳句になる肝どころをよくわきまえた作法だ。長年俳句作りに熱心でないと、なかなかこうは詠めないと思う。派手さはないけれど、いわゆる玄人好みのする一句である。『高嶺星』(2006)所収。(清水哲男)




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