昨夜は久しぶりに東京ドーム観戦。スターや名物男がいなくなった巨人。スタンドも静か。




2006ソスN4ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0242006

 濃みどりの茶摘の三時唄も出ず

                           平畑静塔

語は「茶摘」で春。まだ、摘むには少し早いかな。句は、茶摘みの人たちのおやつの時間だ。茶の葉の濃いみどりに囲まれて、みんなで小休止。お茶を飲んだりお菓子を食べたりと、それだけを見ている分にはまことに長閑で、唄のひとつも出てきそうな雰囲気に思えるのだが、実際には「唄も出ず」なのである。午前中から摘んでいるのだから、「三時」ともなればくたくたに近い。単純労働はくたびれる。夕刻までもう一踏ん張りせねばならないわけで、唄どころではないのだ。この句が出ている歳時記の「茶摘」の解説には、こういう部分がある。「宇治の茶摘女は、赤襷、赤前垂をし、紅白染分け手拭をかぶり、赤紐で茶摘籠を首にかけ、茶摘唄をうたいながら茶を摘んだ」。私はほぼ半世紀前の宇治で暮らしたが、そのころには既にこんな情景はなかった。まだ機械摘みではなかったと思う。こうした茶摘女がいたのは、いったいいつ頃までだったのだろうか。そもそも、本当に歌いながら茶摘をするのが一般的だったのか、どうか。似たような唄に「田植唄」もあるけれど、これまた労働の現場では一度も聞いたことがない。茶摘の経験はないが、歌いながら田植をするなんてことは、あの前屈みの労働のしんどさのなかでは、とうてい無理だと断言できる。したがって、この種の唄が歌われたとするならば、なんらかの祭事などにからめた儀式的労働の場においてではなかったのかと、そんなことを思う。でも、実際に聞いたことがあるという読者がおられたら、ぜひその模様をお知らせいただきたい。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0142006

 大石役者誰彼ぞ亡し義士祭

                           牧野寥々

語は「義士祭」で春。東京高輪の泉岳寺で、四月一日から七日間行われる。冬の討ち入りの日(十二月十四日)にも行われており、こちらの謂れはよくわかるが、なぜ春に行われるのかは、調べてみたが不明。気候が良いころなので、単に人が集まりやすいという理由からだろうか。いまだに人気の高い赤穂義士だが、掲句は義士を追慕するというよりも、これまでに大石内蔵助を演じた役者で故人となった「誰彼」を偲んでいる。芝居、映画、そしてテレビで何度となく演じられてきた義士物語の主役は、多くその時代の名優、人気役者であったから、彼らを偲ぶことはまた時代を偲ぶことにも通じているわけで、作者は泉岳寺の境内に立ちながら往時茫々の感を強くしたことだろう。ちょっと意表をついた句のようだが、しかし考えてみれば、私たちが大石はじめ赤穂浪士の面々を偲ぶというときには、これらの役者が演じた人物像を通して偲ぶのだから、むしろ逆に真っ当な発想であると言うべきか。以下余談。一昨日の夜、NHKラジオの浪曲番組で、三門柳が義士外伝のうちの「元禄武士道・村上喜剣」を演じていた。喜剣は薩摩浪士で、かねてより内蔵助を大人物とみていたが、夜毎の狂態、その腑抜けぶりに遭遇し「噂どおりの腰抜け武士、犬畜生にも劣る大馬鹿者」と内蔵助を足蹴にし「亡君に代わって一刀両断とは思えども犬畜生を斬る刀は持たぬ」と立ち去った男だ。だが、後に義士の討ち入りを聞くに及んでみずからの不明を恥じ、泉岳寺の墓前で割腹する。もちろんこの浪曲の聞かせどころはこのあたりにあるのだけれど、なかで流浪する喜剣の行程が、なぜか「おくのほそ道」と同じなのであり、芭蕉の句までが折り込まれているのには笑ってしまった。俳句入り浪曲なんて、はじめて聞いた。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 3132006

 デッサンのはじめの斜線木の芽張る

                           うまきいつこ

語は「木の芽」で春。絵心のある人でないと、なかなかこうは詠めないだろう。スケッチブックに柔らかい鉛筆で、すっと「はじめの斜線」を引く。木の枝だ。すると、それだけで写生の対象となった眼前の木の芽が、きりりと己を張ったように見えてきたというのである。物をよく見るというのはこういうことであって、それと意識して斜線を引いたおかげで、対象物が細部にいたるまで生き生きと見えてきたのである。いささか教訓めくが、俳句など他の表現においても事は同じで、対象物をよく見て書き、書くことでいっそう対象が鮮やかな姿をあらわす。写生が大事。そうよく言われるのは、この意味からである。ところで、専門家であるなしを問わず、絵をどこから描きはじめるかは興味深い問題だ。掲句は斜線からはじめているわけだが、同じ情景を描くにしても、手のつけどころは人様々のようである。中心となる物からはじめたり、逆に周辺から固めていったりと、描き手によってそれぞれに違う。典型的なのは幼児の場合で、人物を描くときに足のほうからはじめていって、頭をちゃんと描くスペースがなくなり、ちょんぎれてしまうケースは多い。でも、そんな絵に彼らが違和感を覚えないようなのは、やはり彼らの目の位置が低いせいだろう。日常的にも、幼児は大人の頭をさして意識していないのではなかろうか。大人は絵の構図を企むので、簡単には分析できそうもないけれど、私のように下手でも描いてみると、「はじめ」が意外に難しいことがわかる。『帆を張れり』(2006)所収。(清水哲男)




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