仏抗議デモ、各地で若者と警官隊が衝突。800人逮捕。警察国家が牙を剥いた格好だが…。




2006N330句(前日までの二句を含む)

March 3032006

 春風やダックアウトの千羽鶴

                           今井 聖

語は「春風」。センバツ高校野球も、いまやたけなわ。作者の奉職する横浜高校は昨日、沖縄・八重山商工の猛追撃を振り切ってベスト8に進出した。句意は明瞭、句味は爽快。何も付け加えることはないけれど、高校野球のダッグアウト(dugout。句の「ダックアウト」は誤植だろう)に「千羽鶴」が飾られるようになったのは、いつ頃からだったろうか。私の短くはない観戦体験からすると、そんなに昔のことではないと思う。おそらくは女子マネージャーが登場したころと、だいたい同じ時期だったのではあるまいか。戦時中の「千人針」をここで持ち出すのは不適切かもしれないが、あの千人針には女性の必勝祈願が込められていたのであって、千羽鶴もまた同様に女性の気持ちを込めて作られている。私が高校生だったころには、千羽鶴もなければ、野球の試合に女の子が大挙して応援に来ることもなかった。目立たないところで、そっと応援した人はいたようだけれど……。どちらが良いとは軽々には言えないけれど、昔の男ばかりのゴツゴツした雰囲気も悪くはなかったし、応援席から遠く離れた花一輪の可憐な風情にも味があった。ところで掲句とはまったく無関係だが、最近はこの千羽鶴をネツトで買えるのをご存知だろうか。「990羽セット」と「完成品セット」の二種類があり、前者は残り10羽を自分で折り、さらに自分で糸で紡ぐ作業をする。対して後者は、そのまんま渡すだけの完成品で、値段は「990羽セット」が12600円〜31500円。「完成品セット」が18900円〜37800円だという。内職で折るらしいが、一羽折っていくらくらいなのかしらん。関心のある方は、後はご自分でお調ください。俳誌「街」(第58号・2006年4月)所載。(清水哲男)


March 2932006

 玉萵苣の早苗に跼みバス待つ間

                           石塚友二

語は「萵苣(ちさ・ちしゃ)」で春。馴染みが無く、難しい漢字だ。本サイトでは「ちさ」として分類。萵苣には何種類かあるが、「玉萵苣」はいわゆる一般的なレタスのことである。田舎のバス停で、作者はバスを待っている。おそらくは一時間か二時間に一本しか来ないバスだから、乗り遅れないように早めに行っているのだろう。周囲は畑ばかりで、あとは何もない。所在なく見回しているうちに、近くに小さな緑の葉っぱが固まってたくさん生えている苗床が目についた。跼(かが)みこんで見ると、可愛らしい玉萵苣の「早苗」である。ときどきバスのやってくる方角に目をやりながらも、いかにも春らしい色彩の早苗を楽しんでいる図は、長閑な俳味があって好もしい。作者が跼みこんだのは、むろん相手が小さいこともあるのだが、もう一つには、玉萵苣は戦後になって洋食の普及とともに栽培されはじめた品種だから、まだかなり珍しかったことがあるのかもしれない。「おっ」という感じなのである。我が家の農家時代にも萵苣を植えていたが、残念ながら玉萵苣ではなかった。「掻(か)き萵苣」と言って、この品種は既に平安時代には栽培されていたという。その都度、下のほうの葉っぱを何枚か掻きとって食べるタイプのもので、香気はまずまずとしてもやや苦みのあるところが子供には美味を感じさせなかったけれど……。いずれの萵苣も、晩春になると黄色い花をつける。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


March 2832006

 学生は今日で終りといふ花見

                           阪西敦子

語は「花見」。まだ満開ではないが、東京の桜の名所にはずいぶんと人が出ているようだ。ピークは、この週末だろう。近所の井の頭公園でも、よほど早く行かなければ場所は取れない。地元にいながら、悠々と見物するわけにはいかないのである。しかし、なぜ人は必死に場所取りまでして花を見るのだろうか。最近出た現代詩文庫『続続辻征夫詩集』を読んでいたら、なかに「花見物語」というエッセイがあって、あるとき谷川俊太郎にこう話したことが書いてあった。「今年の春はぼく、英国大使館の前の濠端で花見をしたのですが、いいですね、花見って、なぜみんな花見をするのか、はじめてわかった」。「ふーん、どうしてなの?」と谷川さんが聞くと、辻征夫が答えて曰く。「あのね、人間はね、永遠に生きるものじゃないからです。それがはじめてわかった」。「年齢のせいだよそれは!」と谷川さんが笑い,当人も「まさにそのとおり」と笑ったとそれだけの話であるが、私はこの件りにしいんとした気持ちがした。辻征夫に死なれたこともあるけれど、花見の理由を彼はそのときに「人間は永遠に生きるものじゃないからだ」と、理屈抜きに実感したのだと思う。唐詩の一節「年年歳歳花相似、歳際年年人不同」はあまりに有名だが、この詩全体は説教じみていていけない。そんな理屈を越えて、辻征夫は古人の感じたエッセンスのみを、濠端の花見ですっと直感的に掴んだのではあるまいか。掲句の作者はそういうことに気づいてはいないのかもしれないが、「学生は今日で終り」と詠む心持ちのなかに、つまりは人間のはかなさに通じる何かが掴まれてあると、私には思われる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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