富山で医師の安楽死疑惑。近い将来、安楽死は緩い条件で合法化されるのではあるまいか。




2006ソスN3ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2632006

 花の雨鯛に塩するゆふべかな

                           仙 化

語は「花の雨」で、「花」に分類。何かを感じるのだけれど、あらたまって説明せよと言われると、曰く言い難しとしか言いようのない句がある。おなじみの『古句を観る』に出ている元禄期の句だが、柴田宵曲の解説に曰く。「これだけのことである。到来の鯛でもあるか、それに塩をふって置く。こういう事実と、花の雨との間にどういう繋りがあるかといえば、こまかに説明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いている。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に対する興味は岐れるのである」。まことにその通りなのであって、こまかに説明したくてもしようのない句だ。そこをあえて大雑把を承知で説明するならば、「花」と「鯛」という一種のはなやかさで共通する素材に、「雨」と「塩」という物理的心理的な翳をつけることで、春の夕暮れの感傷的な雰囲気を演出しているとでも言えばよいであろうか。むろんこの程度の説明では半分も意を尽くせてはいないが、宵曲はつづけて「この句の眼目は、鯛に塩をふるということと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に塩をふらなければならなくなったか、という径路や順序について、そう研究したり闡明(せんめい)してりする必要はない」と述べ、「そんなこと(句にある状景・清水注)が何処が面白いかというような人は、むしろ最初からこの句に対する味覚を欠いているのである」と突っ放している。私たちはしばしば「この句のどこが良いのか、面白くも何ともない」と簡単に言ったりするが、その前に、その句に対しての自分の味覚が欠けているのかもしれぬという疑念は起こすべきなのであろう。(清水哲男)


March 2532006

 佐保姫は貝殻製のお喋り器

                           星野石雀

語は「佐保姫(さほひめ・さおひめ)」で、「春」に分類。奈良の佐保山を神格化した女神のことで、春の山野の造化を司るとされている。秋の「龍田姫(たつたひめ)」と対をなすが、比べると佐保姫の名前の語感は柔らかくて、いかにも春らしい雰囲気が感じられる。掲句はその姫を指して、「貝殻」でできた「お喋り器」だと断定しているところが愉快だ。となると、ちょうど今頃の自然の音はみな、佐保姫の独り言なのかもしれない。春風にそよぐ植物の音も川のせせらぎも、そして小鳥たちのさえずりも、みんな貝殻を軽く触れ合わせたような優しい音色を響かせている。ただし、それにも限度があって、いかな優しい音色でもとめどなくなってしまうと五月蝿くてかなわない。実際小鳥のさえずりにしても、時によっては五月蝿くも鬱陶しいものだ。だから「お喋り器」と揶揄しているのであろうが、これはひとり佐保姫のことばかりではなく、現実の女性とイメージをダブらせての言い方であるに違いない。むろん男にもお喋りはいるけれど、一般的には圧倒的に女性のほうがお喋りだ。何故かは知らねど、私語を控えたほうがよい場所などでも、女性が何人かいれば必ず誰かが喋っている。その昔、子供のPTAの役員をやらされたとき、役員会の席のあちこちでお母さん方が勝手に喋るのを止めさせるのに苦労したことがある。そんなこっちゃあ、子供以下ですぜ。とも言えず、遠慮がちに、しかし内心では怒り心頭に発して、「佐保姫たち」を静かにさせるのは至難の技であった。すなわち、女神といえどもが人間の女性とちっとも変わらないとは……、やれやれという句だ。俳誌「鷹」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


March 2432006

 夕辛夷ドガの少女は絵に戻る

                           河村信子

語は「辛夷(こぶし)」で春。日本全土に自生しているので、ソメイヨシノなどよりポピュラーだとも言える。東京辺りでは、いまが花の盛りだ。句の「ドガの少女」とは、有名な踊り子シリーズのなかの少女だろうか。あるいは、晩年近くに好んで競馬を描いたパステル画の流れのなかに、少女像があるのかもしれない。あるとすれば、パステル調のほうが掲句には似合いそうだ。ドガは印象派の中心的な存在として知られているが、しかし、他の画家のように明るい外光にさして関心を抱かなかった点がユニークだ。それこそ踊り子シリーズは室内の光で描かれたものだし、競馬の絵にしてもむしろ薄暗い外光で描かれていて、印象派一般のぱあっとした派手な陽光を感じることはできない。句の「夕辛夷」は、おそらくこのあたりのことを意識して選ばれた時間帯と季題なのだろう。夕暮れ時に高いところで真っ白に無数に咲いている辛夷の花は、まさにドガの好んだ心地良い照明そのものなのであって、明るすぎる昼間にはどこかに姿を消していた少女も、いつしか「絵」に戻ってくるのであった。すなわち、ドガの少女像は「夕辛夷」のような照明の下で最もその存在感を得るというのが、掲句の言いたいことだと思う。こんな屁理屈はさておいても、掲句には辛夷と絵の中の少女という意外な取り合わせが、実に自然にスムーズに溶け合った叙情的な美しさがある。作者は一方で長年自由詩を書いてきた人だけに、素材を選ぶ際の視野の広さも感じられる。『世界爺』(2006)所収。(清水哲男)




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