王監督や選手コーチに紫綬褒章授与へ。WBC優勝で政府が調整。人気の尻馬に乗る政府。




2006N324句(前日までの二句を含む)

March 2432006

 夕辛夷ドガの少女は絵に戻る

                           河村信子

語は「辛夷(こぶし)」で春。日本全土に自生しているので、ソメイヨシノなどよりポピュラーだとも言える。東京辺りでは、いまが花の盛りだ。句の「ドガの少女」とは、有名な踊り子シリーズのなかの少女だろうか。あるいは、晩年近くに好んで競馬を描いたパステル画の流れのなかに、少女像があるのかもしれない。あるとすれば、パステル調のほうが掲句には似合いそうだ。ドガは印象派の中心的な存在として知られているが、しかし、他の画家のように明るい外光にさして関心を抱かなかった点がユニークだ。それこそ踊り子シリーズは室内の光で描かれたものだし、競馬の絵にしてもむしろ薄暗い外光で描かれていて、印象派一般のぱあっとした派手な陽光を感じることはできない。句の「夕辛夷」は、おそらくこのあたりのことを意識して選ばれた時間帯と季題なのだろう。夕暮れ時に高いところで真っ白に無数に咲いている辛夷の花は、まさにドガの好んだ心地良い照明そのものなのであって、明るすぎる昼間にはどこかに姿を消していた少女も、いつしか「絵」に戻ってくるのであった。すなわち、ドガの少女像は「夕辛夷」のような照明の下で最もその存在感を得るというのが、掲句の言いたいことだと思う。こんな屁理屈はさておいても、掲句には辛夷と絵の中の少女という意外な取り合わせが、実に自然にスムーズに溶け合った叙情的な美しさがある。作者は一方で長年自由詩を書いてきた人だけに、素材を選ぶ際の視野の広さも感じられる。『世界爺』(2006)所収。(清水哲男)


March 2332006

 春昼や魔法瓶にも嘴ひとつ

                           鷹羽狩行

語は「春昼」。「嘴」は「はし」と読ませている。なるほど、魔法瓶の注ぎ口は鳥の「くちばし」に似ている。「囀り(さえずり)」という春の季語もあるように、折から小鳥たちがいっせいに啼きはじめる時候になってきた。そんな小鳥たちの愛らしい声の聞こえる部屋の中では、ずんぐりとした魔法瓶がいっちょまえに「嘴」を突き出して、こちらはピーとも啼きもせず、むっつりと座り込んでいるのだ。それが春の昼間のとろとろとした雰囲気によく溶け込んでいて、暢気で楽しい気分を醸し出している。魔法瓶の注ぎ口に嘴を思うのは、べつに新鮮な発見というわけではないけれど、春昼とのさりげない取り合わせの妙は、さすがに俳句巧者の作者ならではである。ところで、この魔法瓶という言葉だが、現在の日常会話ではあまり使われなくなってきた。魔法瓶で通じなくはないが、「ポット」とか「ジャー」と言うのが一般的だろう。考えてみれば、「魔法」の瓶とはまあ何とも大袈裟な名前である。登場したころにはその原理もよくわからず、文字通り「魔法」のように感じられたのかもしれないけれど、いまや魔法瓶よりももっと魔法的な商品は沢山あるので、魔法を名乗るのはおこがましいような気もする。西欧語からの翻訳かなと調べてみたら、どうやら日本語らしい。1904年に、ドイツのテルモス社が商品化に成功したことから、欧米ではこの商品名テルモス(サーモス)が現在でも一般的であるという。「俳句研究」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


March 2232006

 にこにこと人違ひさる春の宵

                           内田美紗

語は「春の宵」。見知らぬ人が、親しげに「にこにこと」話しかけてきた。私にも何度か経験があるが、相手が酔っていないかぎりは、こちらの名前を言えばすぐに「人違ひ」だとわかってもらえる。作者の場合もあっさり誤認が解け、その人はバツが悪そうに離れていったのだが、しかし人違いされて悪い気分ではない。「春の宵」のちょっぴり浮いた気分と「にこにこ」顔はごく自然な感じがするし、あまりに自然な間違い方がかえって印象的で、作者もまた思わずもにこにこと笑顔を返したのではなかろうか。春宵ゆえの人情の機微が、よく捉えられている。ところで人違いというのではないけれど、テレビ局の廊下などを歩いていると、本当はまったく知らない人につい会釈してしまうことがある。相手はアナウンサーやタレントなどで、こちらは映像でよく見ているので知っているつもりになって挨拶してしまうわけだが、これもまたバツが悪いことに変わりはない。しかし、なかにはこちらの勘違い会釈に、訝しげな顔もせず「いや、どうも」などと気軽に挨拶を返す人もいたりして、吃驚する。そういう人はおそらく、誰に対してもそうすることに決めているのだろう。私にも放送体験があるのでわかるのだが、毎日のように初対面の人に会うので、とても覚えきれるものではない。そこで一度でも会ったことのある人に失礼にならぬようにと、とりあえず誰かれの区別無く挨拶する人も出てくるというわけだ。商売商売で、思わぬ苦労もあるものである。『内田美紗句集』(2006・現代俳句文庫)所収。(清水哲男)




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