春闘回答はバランバラン。でもゼロ回答無しの大手はいいよ。問題は中小企業だ。がんば。




2006ソスN3ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1632006

 呼ぶマイクきまつて迷子かざぐるま

                           五味 靖

語は「かざぐるま(風車)」で春。人出の多い公園での状景だ。これからの暖かい季節、私もよく近所の井の頭公園に出かけて行くが、この句と同じようなシーンに出くわすので、一読納得。ただ、井の頭の場合は、迷子以外に駐車の移動をうながすアナウンスも頻繁である。迷子の親の呼び出しが聞こえてくると、つい周りを見回してそれらしい人を捜したくなってしまうものだが、むろんわかるわけもない。十数分くらいの間隔で何度も同じ迷子のことが繰り返されると、まったく無縁の人ながら、なぜ早く引き取りにいってやらないのかと腹が立ってきたりする。でも、いやいや、もしかすると親は子供を探すのに必死になっていて、マイクの声が耳に入らないのかもしれないなどと、逆にひどく心配になるときもある。そして公園につきものの屋台では、春の陽光を受けたいくつもの「かざぐるま」が何事もない風情でくるくると回っており、いつしかアナウンスも途絶えていて、公園を離れるころには迷子のこともすっかり忘れてしまっているという具合だ。私自身は一度も迷子になったりなりかけたこともないのだけれど、探す親も大変だろうが、探される側の子の心細さはどんなものなのだろうか。私に迷子体験のない理由は、はっきりしている。親に公園などに連れて行ってもらった体験が、戦前の学齢前に、それこそ井の頭公園に出来たての動物園にたった一度きりしかなかったからである。どこにも出かけなければ、金輪際迷子になる心配はないというわけだ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


March 1532006

 アドバルーンの字が讀めて入學近し

                           小高章愛

語は「入學(学)」で春。入学児を持つ家庭では、とくにそれがいちばん上の子である場合には、なんとなくそわそわするような時期になってきた。真新しいランドセルや教材、制服や帽子など、いろいろなものが揃ってくると、当人よりも親のほうが緊張してくる感じである。子供はなんだか遊園地にでも出かける気分でいるのだろうが、親として最も心配なのは、入学の後に控えている勉強のことだ。べつに抜群に勉強ができなくてもよいとは思うけれど、やはりまあまあの人並みくらいにはできて欲しいと思うのが親心だろう。そんな心持ちでいるから、たまさか我が子が「アドバルーン」の広告文字を苦もなく読んだりすると、頭は悪くない証拠だと安心もするし、それ以上に欲が出て少し余計な期待もしてしまいがちだ。と、このようなことを思いめぐらして、掲句の作者は入学児の父親だろうとはじめは思ったのだけれど、そうではなさそうだと思い直した。詠まれている内容は父親の内心そのものではあったとしても、普通に考えてみて、父たる者がそれをわざわざ句にして他人に見せるようなことはしないであろうからだ。こういうことを気軽に口にしたり句にしたりできるのは、十中八九祖父であるに違いない。孫自慢は一般的だが、子供自慢はあまり歓迎されないということもある。そう思って読み返してみると、このおじいちゃんもどこかで遊園地にでも出かける気分になっているようで、微苦笑を誘われる。晴れて入学の日には、おそらく作者も張り切って校門をくぐったことだろう。それにしても入学式当日の句は多いのに、いろいろ探してみたが、「入學近し」の句はありそうでなかなかないことがわかった。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所収。(清水哲男)


March 1432006

 つちふるや埃及といふ当て字

                           能村研三

語は「つちふる」。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」と言う。空がどんよりと、黄色っぽくなる。「つちふる」を漢字で書けば「霾」と難しい字で、この文字自体からも何やらただならぬ雰囲気が感じられる。さて、掲句の「埃及」は「エジプト」の漢字表記であり、作者は「つちふる」からこの表記をすっと連想している。「埃及」と見るだけで、なんとなく埃っぽい土地を思ってしまうが、実際、エジプトはあまり雨も降らないので埃っぽいところのようだ。ただし「埃及」は昔の中国の表記をそのまま日本が取り入れた言葉だそうで、古い中国語では外国を表記するときに、意味内容よりも音韻的な合致を重視したはずだから、この語に接した当時の中国人には埃っぽいイメージは感じられなかったかもしれない。でも、もしかしてイメージ的にも音韻的にも合致していたのだとしたら、これはたいした造語力である。句に戻ると、私たちの連想はむろん自由にあちこちに飛んでいくわけだが、俳句の世界からすると、この句のように自然現象から言葉それ自体へと飛び、その連想をそのまま句として成立させた作品は案外少ないのではないかと思われる。多くの句は自然に回帰するか、自然を呼び込もうとしているからだ。べつに、どちらがどうと言いたいわけじゃないけれど、句の「埃及」が眺める程にくっきりと見えるのは,きっとそのせいだろうと思ったことだった。「俳壇」(2006年4月号)所載。(清水哲男)




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