受験浪人を経験したせいか、いまだに予備校の広告が気になる。最近はバスのボディにも。




2006ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532006

 アドバルーンの字が讀めて入學近し

                           小高章愛

語は「入學(学)」で春。入学児を持つ家庭では、とくにそれがいちばん上の子である場合には、なんとなくそわそわするような時期になってきた。真新しいランドセルや教材、制服や帽子など、いろいろなものが揃ってくると、当人よりも親のほうが緊張してくる感じである。子供はなんだか遊園地にでも出かける気分でいるのだろうが、親として最も心配なのは、入学の後に控えている勉強のことだ。べつに抜群に勉強ができなくてもよいとは思うけれど、やはりまあまあの人並みくらいにはできて欲しいと思うのが親心だろう。そんな心持ちでいるから、たまさか我が子が「アドバルーン」の広告文字を苦もなく読んだりすると、頭は悪くない証拠だと安心もするし、それ以上に欲が出て少し余計な期待もしてしまいがちだ。と、このようなことを思いめぐらして、掲句の作者は入学児の父親だろうとはじめは思ったのだけれど、そうではなさそうだと思い直した。詠まれている内容は父親の内心そのものではあったとしても、普通に考えてみて、父たる者がそれをわざわざ句にして他人に見せるようなことはしないであろうからだ。こういうことを気軽に口にしたり句にしたりできるのは、十中八九祖父であるに違いない。孫自慢は一般的だが、子供自慢はあまり歓迎されないということもある。そう思って読み返してみると、このおじいちゃんもどこかで遊園地にでも出かける気分になっているようで、微苦笑を誘われる。晴れて入学の日には、おそらく作者も張り切って校門をくぐったことだろう。それにしても入学式当日の句は多いのに、いろいろ探してみたが、「入學近し」の句はありそうでなかなかないことがわかった。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所収。(清水哲男)


March 1432006

 つちふるや埃及といふ当て字

                           能村研三

語は「つちふる」。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」と言う。空がどんよりと、黄色っぽくなる。「つちふる」を漢字で書けば「霾」と難しい字で、この文字自体からも何やらただならぬ雰囲気が感じられる。さて、掲句の「埃及」は「エジプト」の漢字表記であり、作者は「つちふる」からこの表記をすっと連想している。「埃及」と見るだけで、なんとなく埃っぽい土地を思ってしまうが、実際、エジプトはあまり雨も降らないので埃っぽいところのようだ。ただし「埃及」は昔の中国の表記をそのまま日本が取り入れた言葉だそうで、古い中国語では外国を表記するときに、意味内容よりも音韻的な合致を重視したはずだから、この語に接した当時の中国人には埃っぽいイメージは感じられなかったかもしれない。でも、もしかしてイメージ的にも音韻的にも合致していたのだとしたら、これはたいした造語力である。句に戻ると、私たちの連想はむろん自由にあちこちに飛んでいくわけだが、俳句の世界からすると、この句のように自然現象から言葉それ自体へと飛び、その連想をそのまま句として成立させた作品は案外少ないのではないかと思われる。多くの句は自然に回帰するか、自然を呼び込もうとしているからだ。べつに、どちらがどうと言いたいわけじゃないけれど、句の「埃及」が眺める程にくっきりと見えるのは,きっとそのせいだろうと思ったことだった。「俳壇」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


March 1332006

 紅梅やひらきおほせて薄からず

                           睡 闇

うやら熱がありそうだ。昨日は朝から夕方まで、パソコンで確定申告書を作った。根をつめたせいでせいで腰が痛くなったのはやむを得ないが、一段落したので近所のコンビにに買い出しにでかけたら、二度も転倒しそうになった。こんなときには、絶対に熱がある。とは思っても、こんなときに私は絶対に熱を測らない。それはそれとして、とにかく増俳だけは書かねばならないわけで、苦しいときの宵曲、おなじみの『古句を観る』(岩波文庫)をぱらぱらやていたら、なんと昨日の続きみたいな句に出会った。昨日の白梅は「性善説」にどっぶり浸かっていたのだけれど、この紅梅は花が開ききっても、なお花びらは分厚いままだと、紅梅の特長を述べている。そらご覧、古来白梅は褒められ過ぎなんだよと膝を打ちかけたら、宵曲は次のようにも書いていて、いささかがっくりときた。かの子規は晩年、鉢植の紅梅を枕辺に置いて、こう詠んだとうのである。「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」。これは紅梅の花が開いたら、色が薄くなったというわけだが、品種の違いもあるのだろうか。そして、次のように締めくくっており、さすがは宵曲だと熱の頭にも響いてきたのだった。「薄からず」にしろ(中略)こういう観察は漫然紅梅に対する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をじっと見入った結果の産物である。紅梅は紅いものだというだけで、それ以上の観察に及ばぬ人から見たら、この句も歌もけだし興味索然たるものであろう」。(清水哲男)




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