庭の梅がちらほらと。やっと春だと思ったのも束の間、今宵の天気予報には雪だるまが…。




2006ソスN2ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2422006

 野梅咲く行きたふれたる魂のごと

                           いのうえかつこ

語は「(野)梅」で春。「野梅」は野生のままの状態にある梅で、今では三百種を越える品種があると言われる梅の元祖みたいなものだろう。山道あたりで遭遇した一本の梅の木が、小さくて白い花をつけている。眺めていると、あたりの寂しさも手伝って、その昔この山で「行きたふれた」人の「魂(たま)」のように見えてきたと言うのである。急病や極度の疲労、あるいは寒さのために、旅の途次で落命した人の魂が、長い時間を隔てて一輪の花となり地上に現われた。こう想像することに少しも無理はないし、そう想像させるものが山の霊気には確かに存在するようである。万葉の大昔に、柿本人麻呂が行き倒れた人を見て詠んだ歌は有名だ。「草枕 旅のやどりに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たなくに」。こう詠んだ人麻呂自身も石見で客死しているが、誰に看取られることもなく死んでいった人々の孤独な魂を、このふうちゃかした現代に呼び出してみることには意義があるだろう。行き倒れた人の無念や呪詛の念は想像を絶するが、しょせん人間死ぬときはひとりなのである。だからそこには、行き倒れに通う心情や感情が皆無というわけにもいくまい。この句を読んで、殊勝にも「ひとりでない現在」の幸福というようなことに、だんだんと思いが至って行ったのだった。『馬下(まおろし)』(2004)所収。(清水哲男)


February 2322006

 春しぐれやみたる傘を手に手かな

                           久保田万太郎

語は「春時雨(はるしぐれ)」。同じ雨でも、木の芽の萌え出したころの時雨は明るい感じで、冬の寂しい陰気なところがない。むしろ、華やぎさえ感じることがある。掲句は、そんな明るい雨がやんだ後の情景を詠んで、いやが上にも春の明るく華やいだ気分を盛り上げている。春時雨だけでも人々の気分は明るいのに、傘を手に手に雨上がりの路を行く人々の表情はもっと明るい。句の成立事情は知らないが、この「春時雨」を句会の兼題として詠んだものなら、春時雨をやませた発想だけで、句友を二歩も三歩もリードしたと言えるだろう。まったくもって、憎らしいくらいに上手いものです。雨上がりの都会の、あの独特の雨の匂いまでが伝わってきそうな句ではないか。ところで雨の匂いとはよく言うが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、あの匂いは虹の匂いだと言ったそうだから、なかなかのロマンチストだったのかもしれない。今日では正体が解明されていて、二種類の物質が発する匂いだという。一つは「ペトリコール」。これは土の中の粘土の匂いで、湿度が80パーセント以上になると鉄分と反応して匂いが強まるそうだ。雨が降り出してしまうと匂いが流されるため、雨が降る直前のほうが匂いが強まる。もう一つは「ジオスミン」という物質。これは、土の中の細菌の匂いである。こちらは土に雨が染み込むと匂いが強まるので、降りはじめよりも雨上がりのほうが匂いが強くなるというから、掲句に匂いがあるとすれば、ジオスミンが発していることになる。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


February 2222006

 さびしさのじだらくにゐる春の風邪

                           上田五千石

語は「春の風邪」。俳句では、単に「風邪」というと冬季になる。冬だろうが春だろうが、風邪引きは嫌なものだ。が、程度にもよるけれど、冬の風邪がしっかり身にこたえるのに比べて、春の風邪はなんとなくだるい感じが先行する。ぐずぐずと、いつまでも治らないような気もする。そんな春の風邪の気分を、巧みに言い止めた句だと思う。いわば「春愁」の風邪版である。外光も明るいし,気温も高い。そんななかで不覚にも風邪を引いてしまい、いわれなき「さびしさ」にとらわれているのだ。そしてその「さびしさ」は、だんだんに嵩じてくると言うよりも、むしろだらりと「じだらく(自堕落)」な状態にある。つまり心身から緊張感が抜けてしまっているので、「さびしさ」までもが一種の自己放棄状態になってしまっているというわけだ。どうにもシマらない話だが、しかしこの状態に「ゐる」のは、必ずしも不快な気分ではない。たとえいわれなき「さびしさ」であるにもせよ、それが自堕落であってもよいのは、せいぜいが風邪引きのときくらいのものだからだ。日常的、社会的な関係のなかで、ふっと訪れた緊張感を解くことの許される時間……。風邪はつらいけれど、一方でそのような時間を過ごせる気分はなかなか味わえるものではない。「さびしさ」を感じつつも、作者は「じだらくにゐる」おのれの状態をいやがってはいない。私もときに、発熱してとろとろと寝ているときに、そんな気分になることがある。『天路』(1998)所収。(清水哲男)




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