藤田元司さんが亡くなった。74歳。先日の仰木彬さんといい若すぎるよ。寂しくなります。




2006ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022006

 春炬燵男腕組みして眠る

                           中村与謝男

語は「春炬燵(はるごたつ)」。春になっても、まだ使っている炬燵のこと。今年はとくに寒い日がつづくので、しまっていないお宅は多いことだろう。でも、寒いとはいっても、真冬とは違って、室内の温度はだいぶ高くなってくる。そこでつい、とろとろと眠気に誘われる。この「とろとろ」気分が、実に快適なんですよね。掲句の「男」も気持ちよく眠ってしまったわけだが、しかし「腕組み」は相変わらずほどかずにいると言うのだ。さきほどまで、何かを思案していたのだろうか。そんな思案への緊張感を保ったままで眠っている男の姿に、作者はそれこそ「男」を見たのである。とろとろうとうとしているというのに、何もそんなに肩肘張った姿勢のままでいることもあるまいに……。とも思うのだが、他方では眠ってもなお緊張の姿勢を解かないところに、男というもののありようを強く感じさせられて、共感を禁じ得ないでいるわけだ。そんなに大袈裟なシーンではないけれど、この句には、おそらく男同士でないとわからない一種の哀感が漂っているのだと思う。それは、かつて流行した歌「人生劇場」の文句じゃないが、「♪男心は男じゃなけりゃわかるものかと……」の世界に通じていく哀感だ。もはや「男気」などという言葉すらもが聞かれなくなって久しいが、こういうかたちでそれが残っていることに着目した作者の眼力は冴えている。まだまだ「男はつらいよ」の世の中は継続中なのだ。『楽浪』(2005)所収。(清水哲男)


February 0922006

 雪解くる雨だれ落ちつ雪降れる

                           小西鷹王

語は「雪解(ゆきげ・ゆきどけ)」で春。春先にしばしば見かける情景だが、このようにきちんと詠んだ句は珍しい。屋根に積った雪が解けて「雨だれ」となって滴り落ちている上に、また春の雪がちらちらと降ってきているのだ。「雪解」「雨だれ」そして「雪」と道具立てがややこしいので、短い俳句ではなかなか読み難いところを、苦もなく詠んでいるように写る。こうした技術をコロンブスの卵と言うのだろうが、私は大いに感心させられた。技術だけではなく、全体に春近しの情感がよく滲み出ていて、内容的にも十分である。このような日に、私はときどき窓を開けて外の様子を眺める。雨だれに淡く白い雪が降りかかり、降りかかってはすぐに解けてしまう。そんな情景を眺めながら、寒い冬が嫌いなわりには、どこかで冬に惜別の情を感じるような気がするのだから、勝手と言えば勝手なものだ。しかし、掲句で降っている雪は、「雪降れる」の語調からして、もう少し雪らしい雪のようにも思える。となれば、また冬への逆戻りか。いや、もうここまで来ればそんなことはないだろう。などと、作者の内面には冬を惜しむ気持ちはさしてなく、やはり春待つ心に満ちていると言えそうだ。なお、この句が収められている『小西鷹王句集』(2006)は、生前に一冊の句集も持たなかった作者のために、ご子息である小西真佐夫・昭夫氏が三回忌を前にまとめられたものである。(清水哲男)


February 0822006

 つまんとや人来人くる鶯菜

                           松永貞徳

語は「鶯菜(うぐいすな)」で春。小松菜、油菜、蕪の類で、春先に10センチほど伸びたものを言う。作者は江戸初期の文人(1573―1653)。大変な教養人であり、その上に諧謔ユーモアを好んだので、狂歌俳諧の指導者としても名をなした。とりわけて俳諧の庶民化を目指して、全国津々浦々にまで五七五を普及させた功績は大きい。門下生は無数。掲句は、いかにも早春らしい句だ。たくさんの人が次々にやってくるのは、この「鶯菜」を摘もうとしてであろうか。みんな、春を待ちかねていたのだなあ。と、おおよその意味はこうである。大概の読者はこう解釈するだろうし、私もそう思った。ところが、どっこい。貞門の句は一筋縄ではいかない。油断がならない。仕掛けがあるのだ。乾裕幸『古典俳句鑑賞』によれば、この句は『古今集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといとひしもをる」(詠み人知らず)を踏まえているのだという。「梅の花を見るのが目的で来ただけなのに、鶯が『ひとくひとく』(人が来る、人が来る)と鳴いて、いやがっている、という意。『ひとくひとく』は鶯の鳴き声の擬声語だろう。貞徳の句は、この歌を踏まえて、ただの菜ならぬ鶯菜だから、人が摘みにやってきたのだろうよと言ったのである」。つまり『古今集』に通じていないと句の面白さはわからないわけで、俳諧の庶民化とはいうものの、どうやらそれが嵩じていわば「オタク的俳諧」に至っていったようだ。掲句が披講される。すると、多くの人が難しい顔をしているなかで、一人か二人だけがクスクスッと忍び笑いを洩らす。そんなシーンが浮かんでくる。貞徳の時代に生まれなくてよかった。(清水哲男)




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