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2006N28句(前日までの二句を含む)

February 0822006

 つまんとや人来人くる鶯菜

                           松永貞徳

語は「鶯菜(うぐいすな)」で春。小松菜、油菜、蕪の類で、春先に10センチほど伸びたものを言う。作者は江戸初期の文人(1573―1653)。大変な教養人であり、その上に諧謔ユーモアを好んだので、狂歌俳諧の指導者としても名をなした。とりわけて俳諧の庶民化を目指して、全国津々浦々にまで五七五を普及させた功績は大きい。門下生は無数。掲句は、いかにも早春らしい句だ。たくさんの人が次々にやってくるのは、この「鶯菜」を摘もうとしてであろうか。みんな、春を待ちかねていたのだなあ。と、おおよその意味はこうである。大概の読者はこう解釈するだろうし、私もそう思った。ところが、どっこい。貞門の句は一筋縄ではいかない。油断がならない。仕掛けがあるのだ。乾裕幸『古典俳句鑑賞』によれば、この句は『古今集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといとひしもをる」(詠み人知らず)を踏まえているのだという。「梅の花を見るのが目的で来ただけなのに、鶯が『ひとくひとく』(人が来る、人が来る)と鳴いて、いやがっている、という意。『ひとくひとく』は鶯の鳴き声の擬声語だろう。貞徳の句は、この歌を踏まえて、ただの菜ならぬ鶯菜だから、人が摘みにやってきたのだろうよと言ったのである」。つまり『古今集』に通じていないと句の面白さはわからないわけで、俳諧の庶民化とはいうものの、どうやらそれが嵩じていわば「オタク的俳諧」に至っていったようだ。掲句が披講される。すると、多くの人が難しい顔をしているなかで、一人か二人だけがクスクスッと忍び笑いを洩らす。そんなシーンが浮かんでくる。貞徳の時代に生まれなくてよかった。(清水哲男)


February 0722006

 玻璃窓に来て大きさや春の雪

                           高浜虚子

語は「春(の)雪」。北国の雪ではなく、この季節に関東以西に降る雪のこと。春雨になるはずの水滴が、気温が少し低いために雪になるのだ。淡く、溶けやすい。また湿り気があるので結晶がくっつきやすく、いわゆる「牡丹雪(ぼたんゆき)」になることもある。掲句の読みどころは、何と言っても「大きさや」の言い止め方にある。作者は室内から「玻璃(はり)窓」を通して降る雪を見ているわけだが、雪片がガラス窓に近づいてくると、その「大きさ」がよくわかると言うのだ。それこそ牡丹雪だろうか。窓から離れて降っていても、普通の雪とは違う大きさには見えているが、こうして窓に「来て」みれば、ちょっと想像を越えた大きさだった。が、この「大きさ」がどれほどのものかは書いてない。それどころか、厳密に読むと、雪片が「大きい」とも書いてない。あくまでも「大きさや」なのであり、つまり「表面積や」と書くのと同じことなのであって、その後のことは読者の想像にゆだねてしまっている。読者の側にしてみれば、「大きさ」をなんとなく「大きい」と読んでしまいがちだけれど、作者はおそらくそのことも計算に入れて、あえて「大きさ」と詠んだのだろう。つまり窓に来る雪片の大きさには、大きいことは大きくても、それなりに大小いろいろあって、そのいろいろを全てひっくるめての「大きさや」という感慨なのだ。単に春の雪片は「大きいなあ」と表現するよりも、いろいろあって見飽きないという気分がよく伝わってくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0622006

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。春が立ってからやってくる寒さのこと。現象としては春の季語「余寒(よかん)」と同じことだが、余寒が寒さのほうを強調するのに対して、春寒は春のほうに重きをおく。寒いには寒いけれど、もう春なのだと気持ちは明るいほうに傾くのである。掲句においても然り。そうでなくてもこの時期の竹林は寒々しいが、寒波襲来でいよいよもって冷え込んでいる。そんななかに、かぐや姫を抱くように包み込んでポッと薄く光っている一本の竹。その幻想的な光景の想像が、作者にとっての春というわけだ。ここではまだ『竹取物語』ははじまってはいないけれど、やがて親切で正直者のおじいさんが現われて、かぐや姫を発見することは既に決まっている。何の心配も無い。姫はすっかり安心しきって、静かに眠っていることだろう。この方式でいくと、たとえばおばあさんに拾われる前の『桃太郎』の桃だとか、いじめられている亀に出会う前の浦島太郎だとかを詠むこともできそうだ。と、そんなことも思われて楽しくなる。ただ、これら有名な昔話のなかにあって、唯一教訓臭の無いのがかぐや姫の物語だ。とても道徳の教科書には使えない。『竹取物語』には昔の女性の自立願望が込められていると指摘する学者もいるようだが、やがては帝さえをも手玉にとろうかという女性が、ちっちゃな赤ちゃんとして竹の中で無心に眠っている。そこらあたりにも、フェミニストであった作者は春を感じているのかもしれない。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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