電気のコンセントを通じてのブロードバンド通信が今秋から可能になるらしい。楽しみだ。




2006ソスN2ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0622006

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。春が立ってからやってくる寒さのこと。現象としては春の季語「余寒(よかん)」と同じことだが、余寒が寒さのほうを強調するのに対して、春寒は春のほうに重きをおく。寒いには寒いけれど、もう春なのだと気持ちは明るいほうに傾くのである。掲句においても然り。そうでなくてもこの時期の竹林は寒々しいが、寒波襲来でいよいよもって冷え込んでいる。そんななかに、かぐや姫を抱くように包み込んでポッと薄く光っている一本の竹。その幻想的な光景の想像が、作者にとっての春というわけだ。ここではまだ『竹取物語』ははじまってはいないけれど、やがて親切で正直者のおじいさんが現われて、かぐや姫を発見することは既に決まっている。何の心配も無い。姫はすっかり安心しきって、静かに眠っていることだろう。この方式でいくと、たとえばおばあさんに拾われる前の『桃太郎』の桃だとか、いじめられている亀に出会う前の浦島太郎だとかを詠むこともできそうだ。と、そんなことも思われて楽しくなる。ただ、これら有名な昔話のなかにあって、唯一教訓臭の無いのがかぐや姫の物語だ。とても道徳の教科書には使えない。『竹取物語』には昔の女性の自立願望が込められていると指摘する学者もいるようだが、やがては帝さえをも手玉にとろうかという女性が、ちっちゃな赤ちゃんとして竹の中で無心に眠っている。そこらあたりにも、フェミニストであった作者は春を感じているのかもしれない。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0522006

 ひらがなはつつしみふかしせりなずな

                           富田敏子

語は「せり(芹)」と「なずな(薺)」で,春と新年。一応このように分類はしておくが、掲句の趣旨に沿えば、むしろまとめて「春の七草」としたほうがよいのかもしれない。そしてたしかに句が言うように、「せり」や「なずな」の表記は漢字や片仮名のそれよりも「つつしみふかさ」が感じられる。慎み深い表記であるがゆえに、そこにはぽっと早春の気配が立ちこめるのだ。私たちが平仮名表記にやわらかな「つつしみふかさ」を感じるのは、漢字を極端に崩した草書体という外見上の要素もあるけれど、もう一つはほとんど無意識のうちに、平仮名が置かれてきた歴史的文化的な土壌に反応するからではあるまいか。漢字が公用語であった大昔に、平仮名はいわば私的な表現用途のために発達した。平安時代の女流文学、あるいは男の書くものでも和歌の世界などで用いられ、それが積み重ねられるうちに、人の心の襞を描くのを得意とする文字として定着したようである。理論的には,同じ表音文字である片仮名(ローマ字を含めてもよいが)でもそのようなことを表記できない理由はないのだけれど、その歴史的発展形態が記号的であったために、なんとなく私たちは違和感を覚えてしまうのだと思う。私が学齢期のときには、まず片仮名を教えられた。現在は,平仮名を先に教えている。子供にとって読み書きともに難しいのは、だんぜん平仮名のほうだろう。それでも最初に平仮名を教えるのは、善意で考えて、平仮名の持つ豊潤な歴史や文化を感覚的に継承させようとする教育意図があるからなのだろう。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


February 0422006

 じろ飴をたぐりからめて春めく日

                           菅原美沙緒

語は「春めく」。立春を過ぎても、まだまだ寒い日がつづく。ただそんななかにも,目にする風物や肌に触れる大気に、だんだん春の気配が感じられるようになってくる。昔はこの季語に触れると、誰もが心のなごむ思いがしたものだが、近年では花粉症の方が爆発的に増えてきたので、そうもいかなくなってきた。この季語の心的方向については、そろそろ変更する必要がありそうだ。掲句は、昔のままの「春めく」の感覚でよい。いきなり「じろ飴」を持ってきたところで、句は半ば以上成功を約束されたも同然だ。一瞬意外な感じがするが、この句を「じろ飴」のように「たぐりからめて」読んでみると、なるほど句の空気が少しずつ春めいてくる。「じろ飴」は、金沢・俵屋の江戸時代からつづく名物飴だ。「じろ」は同地方の方言で「汁」を意味するらしいが、要するに砂糖を使用せず米と麦芽だけで作った水飴である。私も子供のころ、よく水飴を箸に巻きつけて舐めたけれど、俵屋のものではなかっただろう。といって頻繁に舐めた覚えはないから、風邪薬代わりだったような気もする。もう何十年も口にしたことはないけれど、味や舌の感触はかなりよく覚えている。子供にはいささか甘味不足で物足りなく思えたが、まあいわゆる上品な味だったというわけだ。最近、ときどき発作的に甘いものがほしくなる。そのうちに、一度試してみたい。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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