さあ、スーパーボウルだ。これが終わると、頭を野球に切り替えねば。楽しみには貪欲に。




2006ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0522006

 ひらがなはつつしみふかしせりなずな

                           富田敏子

語は「せり(芹)」と「なずな(薺)」で,春と新年。一応このように分類はしておくが、掲句の趣旨に沿えば、むしろまとめて「春の七草」としたほうがよいのかもしれない。そしてたしかに句が言うように、「せり」や「なずな」の表記は漢字や片仮名のそれよりも「つつしみふかさ」が感じられる。慎み深い表記であるがゆえに、そこにはぽっと早春の気配が立ちこめるのだ。私たちが平仮名表記にやわらかな「つつしみふかさ」を感じるのは、漢字を極端に崩した草書体という外見上の要素もあるけれど、もう一つはほとんど無意識のうちに、平仮名が置かれてきた歴史的文化的な土壌に反応するからではあるまいか。漢字が公用語であった大昔に、平仮名はいわば私的な表現用途のために発達した。平安時代の女流文学、あるいは男の書くものでも和歌の世界などで用いられ、それが積み重ねられるうちに、人の心の襞を描くのを得意とする文字として定着したようである。理論的には,同じ表音文字である片仮名(ローマ字を含めてもよいが)でもそのようなことを表記できない理由はないのだけれど、その歴史的発展形態が記号的であったために、なんとなく私たちは違和感を覚えてしまうのだと思う。私が学齢期のときには、まず片仮名を教えられた。現在は,平仮名を先に教えている。子供にとって読み書きともに難しいのは、だんぜん平仮名のほうだろう。それでも最初に平仮名を教えるのは、善意で考えて、平仮名の持つ豊潤な歴史や文化を感覚的に継承させようとする教育意図があるからなのだろう。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


February 0422006

 じろ飴をたぐりからめて春めく日

                           菅原美沙緒

語は「春めく」。立春を過ぎても、まだまだ寒い日がつづく。ただそんななかにも,目にする風物や肌に触れる大気に、だんだん春の気配が感じられるようになってくる。昔はこの季語に触れると、誰もが心のなごむ思いがしたものだが、近年では花粉症の方が爆発的に増えてきたので、そうもいかなくなってきた。この季語の心的方向については、そろそろ変更する必要がありそうだ。掲句は、昔のままの「春めく」の感覚でよい。いきなり「じろ飴」を持ってきたところで、句は半ば以上成功を約束されたも同然だ。一瞬意外な感じがするが、この句を「じろ飴」のように「たぐりからめて」読んでみると、なるほど句の空気が少しずつ春めいてくる。「じろ飴」は、金沢・俵屋の江戸時代からつづく名物飴だ。「じろ」は同地方の方言で「汁」を意味するらしいが、要するに砂糖を使用せず米と麦芽だけで作った水飴である。私も子供のころ、よく水飴を箸に巻きつけて舐めたけれど、俵屋のものではなかっただろう。といって頻繁に舐めた覚えはないから、風邪薬代わりだったような気もする。もう何十年も口にしたことはないけれど、味や舌の感触はかなりよく覚えている。子供にはいささか甘味不足で物足りなく思えたが、まあいわゆる上品な味だったというわけだ。最近、ときどき発作的に甘いものがほしくなる。そのうちに、一度試してみたい。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 0322006

 日向ぼこ呼ばれて去ればそれきりに

                           中村汀女

語は「日向ぼこ」で冬。リルケに「老人("Greise")」という短編がある。七十五歳になったペーター・ニコラスは毎朝、市の公園に不自由な足で日向ぼこに出かけていく。菩提樹の下のベンチに坐るのだが、彼は真ん中に,そして両側にはいつも近くの(森林太郎、つまり鴎外の訳によれば)「貧院」からやってくる彼よりも少し年長の男が一人ずつ坐る。ベビイとクリストフだ。三人の坐る場所は変わらず、儀礼的な挨拶はするけれど,親しく話し合うということはない。やがて正午になると、彼だけには可愛らしい孫娘の声が耳元でささやく。「おじいさん、お午(おひる)」。そうして二人はいつも決まった時間に家に戻っていき、残された二人の老人は、黙って彼らの後ろ姿が消えるまで見送る。で、むろん「それきりに」なってしまう。しかし、たまにどうかすると、その孫娘が摘んできた草花が二、三本落ちていることがある。すると老人の一人が恥ずかしそうにそれを拾い、片方の老人はといえば、馬鹿らしそうにその姿を見ているだけだ。「併し貧院に戻り着くと、ベビイが先に部屋に入つて、偶然の様にコツプに水を入れて窓の縁に置く。そして一番暗い部屋に腰かけて、クリストフが拾つて来た花をそれに挿すのを見てゐる」。物語は、ここでお終い。掲句の鑑賞も、この短編に含まれていると思うので、今日はこれでお終いです。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)




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