二月の看板は世界の女性像。人物写真は掲載権クリアが難しいので、途中で挫折するかも。




2006ソスN2ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0122006

 二月はやはだかの木々に日をそそぐ

                           長谷川素逝

語は「二月」で春。立春の月(今年は二月四日)ではあるが、まだ寒さの厳しい日が多い。掲句の「二月はや」の「はや」は「はやくも二月」のそれであると同時に、「日をそそぐ」の「そそぐ」にかけられている。ついさきごろ年が明けたような気がしているが、もう二月になってしまった。早いものだ。そういえば、木々に射す日の光も真冬のころとは違い、光量が増してきて「(降り)そそぐ」という感じである。本格的な春の先触れとして、たしかにこの時期くらいから、徐々に日の光の加減に勢いがついてくる。枯れ木を「はだかの木々」と表現したことで、いささかなまめかしい春の気分もうっすらと漂っているようだ。いかにも俳句らしい俳句である。作者の主観は極端に押さえられ、シンプルな情景のみで二月のはじまった雰囲気が描き出されている。いわゆる有季定型句のお手本のような句にして、玄人受けのする句だ。こういう句の面白さがわからない人は、あまり俳句にむいていないのかもしれない。かくいう私も、この句の良さがちゃんとわかったとは言い難く、どこかで手をこまねいている気分だ。ましてや、こうした視点からの作句などは、逆立ちしたってできっこないだろう。いや、そもそも逆立ちなんぞという比喩の軽薄さを、掲句の世界は最初から拒否しているのである。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


January 3112006

 雪女郎です口中に角砂糖

                           鳥居真里子

語は「雪女郎」で冬、「雪女」「雪鬼」などとも。「雪女郎です」と名乗ってはいるけれど、この句のなかに雪女郎は存在しない。名乗っているのは、他ならぬ句の作者自身だからだ。気まぐれに「角砂糖」を口に含んだときに、ふっと砂糖の白から雪を連想し、雪から雪女郎にイメージが飛んだ。そして雪女郎が口を利くとすれば、角砂糖ならぬ雪を口中に含んでいて、おそらくはこんな声になるのだろうと自演してみた。口中の角砂糖がまだほとんど溶けない間に「雪女郎です」と発音すれば、「ゆひひょろーれす」のような、しまりの悪い感じになるだろうな。などと想像して、思わず笑ってしまったが、しかし茶目っ気からとはいえ、雪女郎の口の利き方まで想像する人はあまりいないのではなかろうか。好奇心旺盛な人ならではの一句だと思った。雪女郎はむろん想像上の人物、というか妖怪の類だから、特定のイメージはない。したがって特定の声もないわけで、各人が勝手に想像すればよいのではあるが、掲句を読んでしまった私などは、これからはこの句を離れた声を想像することは難しくなりそうだ。「しまりの悪い感じ」の声と言ったけれど、逆にきちんと発音された声よりも、実際に聞かされたなら怖さは倍するような気がする。歳時記の分類では、大昔から「雪女郎」は「天文」の項に入れられてきた。つまり、雪女郎は「雪」そのものだとか「雪晴」や「風花」などと同列の自然現象の一つなのだ。自然現象のなかで最も不気味なのは、人智の及ばぬ不明瞭さ、不明晰さであることは言うまでもないだろう。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 3012006

 ひと口を残すおかはり春隣

                           麻里伊

語は「春隣(はるとなり)」で冬、「春近し」に分類。これも季語の「春待つ」に比べ、客観的な表現である。「おかはり」のときに「ひと口を残す」作法は、食事に招いてくれた主人への気配りに発しているそうだ。招いた側は、客の茶碗が空っぽになる前におかわりをうながすのが礼儀だから、その気遣いを軽減するために客のほうが気をきかし、「ひと口」残した茶碗でおかわりを頼むというわけである。残すのは「縁が切れないように」願う気持ちからだという説もある。いずれにしても掲句は、招いた主人の側からの発想だろう。この作法を心得た客の気配りの暖かさに、実際にも春はそこまで来ているのだが、心理的にもごく自然に春近しと思えたのである。食事の作法をモチーフにした句は、珍しいといえば珍しい。私がこの「おかはり」の仕方を知ったのは、たぶん大学生になってからのことだったと思う。だとすれば京都で覚えたことになるのだが、いつどこで誰に教えられたのかは思い出せない。我が家には、そうした作法というか風習はなかった。おかわりの前には、逆に一粒も残さず食べるのが普通だった。だから、この作法を習って実践しはじめたころには、なんとなく抵抗があった。どうしても食べ散らかしたままの汚い茶碗を差し出す気分がして、恥ずかしいような心持ちが先に立ったからだった。このとき同時に、ご飯のおかわりは三杯まで、汁物のおかわりは厳禁とも習った。が、こちらのほうのマナーは一度も気にすることなく今日まで過ごしてきた。若い頃でも、ご飯のおかわりは精々が一杯。性来の少食のゆえである。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)




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