♪雪が降ってきた ほんの少しだけど 私の胸の中に…。これ、何ていう歌でしたっけ。




2006ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112006

 狼も詠ひし人もはるかなり

                           すずきみのる

語は「狼」で冬。「山犬」とも言われた日本狼(厳密に言えば狼の亜種)は、1905年(明治三十八年)に奈良の鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したとみられている。したがって、ここ百年ほどに詠まれた狼句は、すべて空想の産物だ。といって、それ以前に人と狼とが頻繁に出会っていたというわけではなく、たとえば子規の「狼のちらと見えけり雪の山」などは、いかにも嘘っぽい。実景だとすれば、もっと迫力ある句になったはずだ。そこへいくと、江戸期の内藤丈草「狼の声そろふなり雪のくれ」の迫真性はどうだろう。掲句はそんな狼だけを主眼にするのではなく、狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうにも思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。むろん子規でも丈草でも構わないわけだが、私には十中八九、「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。三橋敏雄が亡くなったのは2001年だから、常識的には「はるかなり」とは言えない。しかし、逆に子規などの存在を「はるかなり」と言ったのでは、当たり前に過ぎて面白くない。すなわち、百年前までの狼もそれを愛惜した数年前までの三橋敏雄の存在も、並列的に「はるかなり」とすることで、掲句の作者はいま過ぎつつある現在における存在もまた、たちまち「はるか」遠くに沈んでいくのだと言っているのではなかろうか。そういうことは離れても、掲句はさながら話に聞く寒い夜の狼の遠吠えのように,細く寂しげな余韻を残す。『遊歩』(2005)所収。(清水哲男)


January 2012006

 大寒や転びて諸手つく悲しさ

                           西東三鬼

語は「大寒」。「小寒」から十五日目、寒気が最も厳しいころとされる。あまりにも有名な句だけれど、その魅力を言葉にするのはなかなかに難しい。作者が思いを込めたのは、「悲しさ」よりも「諸手(もろて)つく」に対してだろう。不覚にも、転んでしまった。誰にでも起きることだし、転ぶこと自体はどうということではない。「諸手つく」にしても、危険を感じれば、私たちの諸手は無意識に顔面や身体をガードするように働くものだ。子供から大人まで、よほどのことでもないかぎりは転べば誰もが自然に諸手をつく。そして、すぐに立ち上がる。しかしながら、年齢を重ねるうちに、この日常的な一連の行為のプロセスのなかで、傍目にはわからない程度ながら、主観的にはとても長く感じられる一瞬ができてくる。それが、諸手をついている間の時間なのである。ほんの一瞬なのだけれど、どうかすると、このまま立ち上がる気力が失われるのではないかと思ったりしてしまう。つまり、若い間は身体の瞬発力が高いので自然に跳ね起きるわけだが、ある程度の年齢になってくると、立ち上がることを意識しながら立ち上がるということが起きてくるというわけだ。掲句の「諸手つく」は、そのような意識のなかでの措辞なのであり、したがって「大寒」の厳しい寒さは諸手を通じて、作者の身体よりもむしろその意識のなかに沁み込んできている。身体よりも、よほど心が寒いのだ……。この「悲しさ」が、人生を感じさせる。掲句が共感を呼ぶのは、束の間の出来事ながら、多くの読者自身に「諸手つく」時間のありようが、実感としてよくわかっているからである。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 1912006

 サンドイッチ頬ばるスケート靴のまま

                           土肥あき子

語は「スケート」で冬。いいなあ、青春真っ只中。べつに青春でなくても構わないけれど、おじさんがこの姿でも絵にはならない。で、私のスケートの思い出。はじめてスケート靴をはいたのは、二十歳くらいだったか。大学の体育の授業で、スケート教室みたいなものが急遽ひらかれたときのことだ。急遽というのは、体育の単位は出席時間数に満たないと取得できない規定があって、この時期に正規の授業だけでは時間数が不足になることが明らかな学生を救済するための臨時的措置としてひらかれたからである。私は学生運動に忙しかったこともあり時間数が不足していたので、これ幸いと教室に潜り込むことにした。だが、申し込んではみたものの、スケートなんて一度もやったことがない。初心者でも大丈夫ということだったが、そこはそれ、変な青春の意地もあって、その前にひそかに特訓を受けることにしたのである。正月休みで帰省した際に、スポーツ万能の先輩に頼んで、東京の山奥(青梅だったか五日市だったか)にあった野外スケート場に連れていってもらったのだ。しかしまあ、行ってみて驚いた。リンクはなんと、田圃に水をはって凍らせたようなものでデコボコだらけ。そこを貸し靴で滑るのだから、手本を見せてくれた先輩がまず顔から氷面に突っ込んでしまうというハプニングが起き、まあ怖かったのなんのって。それでも、青春の意地は凄い。そんな劣悪なリンクでもなんとか滑れるようになって、大学に戻った。そして、授業本番。「岡崎アリーナ」という名前だったと思うが、室内のリンクでありデコボコなんてどこにもなく、その滑り良さに感激しながらの授業とはあいなったのだった。ああ、これがスケートというものか。すっかり気に入って、せっせと授業に通ったのはもちろんである。授業だから、まさかサンドイッチを頬ばるわけにはいかなかったが、掲句の楽しい気分はわかるつもりだ。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)




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