「証人喚問って何だと思うのか」「さあ、よくわかりませんが」と証人。これに尽きる。




2006ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1812006

 行く雲の冥きも京の冬の晴

                           瀧 青佳

語は「冬(の)晴」。京都の冬晴れを言いとめて、絶妙な句だ。同じ「冬晴」とはいっても、京都のそれは東京のように明るくカーンと抜けたような雰囲気ではない。良く晴れはしても、どこかに何かが淀んでいるような恨みが残る。これを指して「行く雲の冥(くら)きも」とは、まさに至言だ。地形的な影響もあるのだろうが、京都の天気は油断がならない。私は烏丸車庫の裏手の北区に住んでいたのだが、雪の舞い散るなかを出かけて、わずか数キロしか離れていない百万遍の大学に着いてみると、まったく降っていないということがよくあった。雨についてもむろん同様で、局地的に天候がめまぐるしく変化するようである。しかし掲句は、そういうことだけを言っているのではないだろう。もう一つの雲の冥さは、多分に心理的なものだ。街全体のおもむきが、たとえば江戸を陽とすれば、京は陰である。千年の都が抱え込んできたさまざまな歴史的要因が、現代人にもそう思わせるところがあるのだ。はるか昔の応仁の乱など知るものか、関係ないよなどとは誰にも言わせない伝統の力が、京都の街には遍在している。そういうことが私には、京都を離れてみてよくわかったのだが、代々地元にある人は理屈ではなく、いわば肌身にしみついた格好になっているのだろう。作者は大阪在住だが、句集を見ると京都にも親しい人のようだ。生粋の京都人ではないだけに、京都を見る目に程よい距離と時間があって、この独特のリリシズムが生まれたのだろうと思った。『青佳句集』(2005)所収。(清水哲男)


January 1712006

 冬山に僧も狩られし博奕かな

                           飯田蛇笏

語は「冬(の)山」。大正初期の作である。「博奕(ばくち)」は、おそらく花札賭博だ。農閑期、冬閑期の手なぐさみとでもいおうか、他に娯楽とてない寒村で博奕が流行したのはうなずける。違法行為ではあるけれど、多くの村人が関わっていることはいわば公然の秘密なのであり、当然警察も知っているのだが、たいていは見て見ぬふりをしていたのだろう。警察といえどもが村落共同体の一員だから、何事にも杓子定規だけでは事は巧く運ばない。それでも面子や威信もあるので、たまにはと山寺を急襲して取り締まった結果が、僧侶の逮捕ということになった。むろん僧侶の逮捕はあらかじめ意図されたものであり、情報宣伝価値の高さをねらったもので、これはいつの世にも変わらぬ警察の常套的な戦略である。作者はこの情報を聞いて作句したわけだが、この句の言わんとするところのものは、僧侶のスキャンダルを嘆いているのでもなければ博奕の流行を慨嘆しているのでもない。私の読後に残ったのは「僧」でもなければ「博奕」でもなく、ただ上五の「冬山に」の「冬山」だけだった。中七下五のどたばた劇も、終わってみればみな、荒涼たる冬の山に吸収されてしまったがごとくではないか。このときに「博奕かな」の「かな」には、結局は冬山に吸収されてしまう卑小な人間行為へのあきらめの気持ちが込められている。下世話に言えば「やれやれ」というところか。『山廬集』(1932)所収。(清水哲男)


January 1612006

 寒柝や街に子供の声残る

                           両角武郎

語は「寒柝(かんたく)」で冬、「火の番」に分類。火事の多い冬季には火の用心のために夜回りをするが、その際の拍子木の音が「寒柝」だ。我が家の近辺でも引っ越してきた当座(もうかれこれ四半世紀前になる)の何年間かは、夜遅くに寒柝が聞こえてきたものだが、いつの間にか聞こえなくなってしまった。古くからの住民で作っている町内会の人々の高齢化によるものなのか、あるいはもはや夜回りは時代遅れという判断からなのか、いざ聞こえなくなってみるとなんとなく物足りなくて寂しい気がする。掲句は現代の句。作者は東京郊外の東村山市在住とあるから、私の住む三鷹市とはそんなに遠くない東村山では、寒柝は健在というわけだ。その寒柝がひとしきり鳴って通ったあと、街に「子供の声」が残ったと言うのである。実況なのだろうが、たとえば犬の声ならよくありそうだけれども、夜遅い時間の表での子供の声とは印象的だ。「残る」とあるので、寒柝といっしょにも聞こえていたに違いない。おそらくは「火の用心」と、子供も真似をして声を出していたのである。それが寒柝が去ったあとでも、まだ屈託なく「火の用心」とやっている。それにしても、こんな寒い夜中に、あの子(ら)は何故外にいるのだろうか。傍に、ちゃんと大人がついているのだろうか。そんな不安もちらりと頭をかすめて、作者はまた耳をこらしたことだろう。子供と夜。いささか不気味な取り合わせである。「東京新聞・武蔵野版」(2006年1月15日付朝刊)所載。(清水哲男)




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