アップルがインテル製MPU搭載のMacを発表。これでOS9仕様のソフトは動かなくなるな。




2006ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1212006

 煮凝や晝をかねたる朝の飯

                           松尾いはほ

語は「煮凝(にこごり)」で冬。煮魚を煮汁とともに寒夜おいておくと、魚も汁もこごりかたまる。これが煮凝りである。料理屋などでは、わざわざ方型の容器で作って出したりするけれど、掲句の煮凝りは昨夜のおかずの煮魚が自然にこごってできたものだろう。昔の室内、とりわけて台所は寒かったので、自然にできる煮凝りは珍しくはなかった。作者は京都の人だったから、これは底冷え製である。句は、あわただしい一日のはじまりの情景だ。急ぎの用事で、これからどこかに出かけていくところか。たぶん、昼食はとれないだろうから、朝昼兼用の食事だと腹をくくって食べている。それすらもゆっくり準備して食べる時間はないので、食べているのは昨夜の残り物だ。ご飯ももちろん冷たいままなので、これまた冷たい煮凝りといっしょでは侘しいかぎり。おかずが煮凝りだったわけではないが、これと似たような食事体験は、私にも何度かあった。思い出してみると、我が家は夕食時にご飯を炊いていたので、朝飯はいつも冷たくて、あわただしい食事ではなくても侘しい感じがしたものだ。冷たいご飯に熱い味噌汁をぶっかけて食べたり、あるいはお茶漬けにしたりと、冷たいご飯をそのままで食べるのは苦手であった。だから余計に掲句を侘しいと思ってしまうのかもしれないが、句のような煮凝りの味は現在、もはや死語ならぬ「死味」になってしまったと言ってもよいのではなかろうか。往時茫々である。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1112006

 観覧車雪のかたちに消えにけり

                           五島高資

が降っている。それでも動いている「観覧車」を、作者は離れた場所から見上げているのだろう。こんな日に、乗ってる人がいるのだろうか。そのうちにだんだん降りが激しくなってきて、とうとう見えなくなってしまった。その様子を、迷うことなく「雪のかたちに」消えたと詠んだところに、作者のリリシズムが光っている。消えたとはいっても、遠くのほうでまだぼおっと霞んでいて、観覧車のかたちは残っているのだ。つまり、あくまでも観覧車はおのれの「かたち」を保っているわけだが、時間が経つにつれて降る雪と混然となっていく様子を指して、作者は「雪のかたちに消えにけり」と情景に決着をつけたのである。「雪」に「かたち」はない。しかし、このように「ある」のだ。そう言い切っているところに、句としての鮮やかさを感じた。観覧車といえば、高所恐怖症にもかかわらず、私が一度乗ってみたいのは映画『第三の男』に出てきたウイーンの大観覧車だ。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンが、これに乗って話し合う有名な場面がある。だから乗らないまでも見てはおきたいと長年思っていたのだが、実は十数年前に一度、スケジュール的に少し無理をすればチャンスはあったのである。所用でせっかくウイーンの駅で降りたのに、しかし疲れていたこともあって、またの機会にと断念してしまった。でも私には、もはやまたの機会はないだろう。あのときに行っておけばよかったと、何度くやんだことか。だいたいが私は「またの機会に」と思うことが多い人間で、大観覧車にかぎらず、けっこう見るべきものを見ないままに今日まで来てしまっている。要するに、勤勉でない性格なのである。『蓬莱紀行』(2005)所収。(清水哲男)


January 1012006

 火吹竹火のことだけを思ひ吹く

                           吉田汀史

語は「火吹竹(ひふきだけ)」で冬。一年中使ったものだが、最も火に縁のある冬とするのが妥当だろう。最近、この句に出会うまではすっかり忘れていたけれど、懐かしく思い出せた。薪を焚いたり炭火を熾したりする初期の段階では、なくてはならない道具だった。竹筒の先っぽの節の面に細い穴を明け、面を取り去ったもう一方の側から息を吹き込む。新聞紙などを燃やして少し火のつきかけた薪や炭に、そうやって新鮮な空気を送ってやると、だんだんに火力が増してきて燃え上がるようになる。原理的には簡単なものだが、けっこうコツを要した。火元に近づけすぎて、竹筒に火がついてしまうこともあった。焦らず騒がず、句にあるように「火のことだけを思ひ吹く」ことが、結局は早道だった。この句はしかし、そうした火吹竹使いのコツだけを述べようとしているのではない。それもあるが、一方では対象である「火」そのものが、吹いている人間の思いを引き込む力を持つことも言っている。実際、小さな火を慎重に真剣に吹いていると、だんだんと火に魅入られてきて、「火のことだけ」にしか集中できなくなってくるのだ。吹くほうが一心に火を思っていると、火の側もそんな吹き手の思いを吸い込んでしまうかのようであった。大袈裟かもしれないが、そこに束の間の無我の境のような心持ちが生まれたものである。小学生時代には交替で早朝登校して、教室の大火鉢に炭を熾す当番があった。先生は立ち会わない。全部子供だけでやった。今そんなことをしたら、新聞ダネになってしまうだろう。忘れていたそんな思い出も、掲句から鮮やかに蘇ってきたのだった。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)




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