冬季五輪、あちらでは関心が低いという報道。最近トリノに行った友人もそう言ってた。




2006ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012006

 火吹竹火のことだけを思ひ吹く

                           吉田汀史

語は「火吹竹(ひふきだけ)」で冬。一年中使ったものだが、最も火に縁のある冬とするのが妥当だろう。最近、この句に出会うまではすっかり忘れていたけれど、懐かしく思い出せた。薪を焚いたり炭火を熾したりする初期の段階では、なくてはならない道具だった。竹筒の先っぽの節の面に細い穴を明け、面を取り去ったもう一方の側から息を吹き込む。新聞紙などを燃やして少し火のつきかけた薪や炭に、そうやって新鮮な空気を送ってやると、だんだんに火力が増してきて燃え上がるようになる。原理的には簡単なものだが、けっこうコツを要した。火元に近づけすぎて、竹筒に火がついてしまうこともあった。焦らず騒がず、句にあるように「火のことだけを思ひ吹く」ことが、結局は早道だった。この句はしかし、そうした火吹竹使いのコツだけを述べようとしているのではない。それもあるが、一方では対象である「火」そのものが、吹いている人間の思いを引き込む力を持つことも言っている。実際、小さな火を慎重に真剣に吹いていると、だんだんと火に魅入られてきて、「火のことだけ」にしか集中できなくなってくるのだ。吹くほうが一心に火を思っていると、火の側もそんな吹き手の思いを吸い込んでしまうかのようであった。大袈裟かもしれないが、そこに束の間の無我の境のような心持ちが生まれたものである。小学生時代には交替で早朝登校して、教室の大火鉢に炭を熾す当番があった。先生は立ち会わない。全部子供だけでやった。今そんなことをしたら、新聞ダネになってしまうだろう。忘れていたそんな思い出も、掲句から鮮やかに蘇ってきたのだった。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


January 0912006

 道にはずむ成人の日の紙コップ

                           秋元不死男

語は「成人の日」で新年。いろいろな情景が想像できるが、あまりディテールを思い描かないほうがよいだろう。道を歩いていたら、どこからか「紙コップ」が跳ねながら転がってきた。それだけで十分だ。誰がどんな状況で投げ捨てたのかなどは、とりあえず句意には関係がない。作者が言いたいのは、この跳ねている紙コップに若さの一側面を見たということだけだからだ。すなわち、若さとはこのコップのように真っ白で何でも入れることができ、しかし他方ではいくらでも投げ捨てることもできる二面性を持っている。多くの可能性と、同時に多くの消費性とを併せ持つところが、若さという容器なのである。しかも、投げ捨てられてもなお跳ねているところが、遠く青春を去った作者にとっては、とても眩しく思われるのでもある。若さのただ中にあってはわからなかったことが、いまこうして捨てられた紙コップからでさえも、容易にわかってしまう切なさよ。と、作者はおのれの来し方をもちらりと想起して、あらためて紙コップを見つめ直しているのだ。ところで「成人の日」の制定時には一月十五日と決まっていたが、現在は第二月曜日へと動くようになった。年ごとに違う日付になるのはしっくりこない気がするが、2000年1月14日に急逝した辻征夫の場合は、変更になったおかげでお嬢さんの成人式に立ち会うことができたのだった。没後、親娘で撮った晴れ晴れとした記念写真を見せてもらったことがある。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0812006

 初場所のすまねば松の取れぬ町

                           石川星水女

語は「初場所」で新年。東京の松の内は、元日から七日までとするのが普通だ。対して関西などでは十四日ないしは十五日までと長い。ところが東京でも、初場所興行のある両国の町だけは別である。場所が終わるまでは「正月」だ、どんなもんだいと、無邪気に町の自慢をしている句だ。ちなみに今年は今日が初日だから、両国で松が取れるのは二十二日の夜ということになる。たしかに長い正月だ、たいしたもんだと、こういうめでたい句は褒めておくに限る。それに、相撲はいちばん正月に似合うスポーツだと思う。古式ゆかしい伝統を持っていることもあるけれど、何と言っても飲み食いをいわば前提にしたスポーツ観戦は相撲だけだからだ。束の間ながら、憂き世を忘れての殿様気分で楽しめるのが相撲なのである。ほとんど芝居見物と同じ気分で観戦でき、他のサッカーやらラグビーやらのように息をこらして見つめつづける必要もない。贔屓力士や人気力士が出てくるまでは、一杯やりながらのんびりと構えていればよいのである。こんなスポーツ観戦の仕方が、他にあるだろうか。もう少し言えば、相撲の勝敗には殺伐としたところが稀薄なのも正月的だ。もとより力士には並外れたパワーも必要だが、小さな土俵の上で決着をつけるのは、パワーにプラスされた技である。その意味でも元来相撲は演劇的なのであって、芝居見物の気分と通い合うのも、土俵と舞台の上には技を見せるという似た風が吹いているからだろう。とまれ、今場所も外国人力士の優勢は動きそうもない。べつに私は構わないが、正月気分からすると、もっと強い日本人力士の登場が待たれる昨今ではある。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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